夏の太陽の下へ


 

第2話 搾りたてのジュースと共に (1)

 

   

 光二と義樹が洋の喫茶店を訪れてから六日後、つまり次の日曜日、光二は塾で使っている英語のプリントなどを鞄に詰め込んで、待ち合わせ場所のコンビニへと向かった。
 時計を見れば待ち合わせ時間の午後三時五分前、いつも十分以上遅れてくる義樹に対しては早すぎる到着だ。いつものことだとわかっているが、ついつい時間通りに来てしまう。とりあえず、コンビニの中で少し涼んでいくかと思い、自転車を止めようとした。
「おお、光二、時間ぎりぎりじゃないか!」
 意外な声に動きを止める。そして視界の端から現れるくせ毛の人物を見て、唖然とした。義樹が入り口の脇で腕を組みながら立っているのだ。
 ラフな格好は変わらないが、こんなに爽やかに現れる義樹は今までに見たことがなかった。
「さあ、行こうぜ。どうした、何ぼーっとしているんだ?」
「あ、いや、意外すぎて……。今日は雪か?」
「俺だってやるときはやるんだよ。雪なんて降るかよ、こんな暑い日に。さあ、行くぜ、喫茶楽園へ!」
「……ソレイユ・デ・レテだって」
 小さく突っ込んだが、まったく耳には入っていない。
 ――恋って、ここまで人を変えられるんだ。ある意味、勉強になる。
 そう考えることで、義樹に対する変人扱いが少しだけ和らいだ気がする。平日は塾と予習と復習で終わるが、たまの休日くらい、こういうのもいいなと感じていた。


 午後三時過ぎ――、喫茶店の前には二台の自転車が脇に並べられていた。だが、二台の置かれ方は全然違っており、特にそのうちの一台は半分飛び出している。個性というものがそこに表れていた。
 鐘をカランカランと激しく鳴らしながら、義樹は元気よく入っていく。
「おはようございます!」
 まるで教室に入る挨拶の仕方。額を手で押さえながら、光二は少し間を空けて続く。洋は嫌な表情一つせず、二人を出迎える。
「こんにちは、義樹君に光二君。今日も元気そうだね」
「もちろんさ! 今週は今日という日を楽しみしてきたんだから」
「そうか、それはとても嬉しいことだ。では、席に案内するね」
 義樹が鼻歌をしながら、洋の後に着いていった。光二は他の客の様子を見ながら、恐る恐る踏み入れる。
 まだあの少女たち――恵美香と水菜は来ていないようだ。
 他には三人組の中年のおばさんたちと、女子高校生が二人。幸いなことに先週と顔ぶれは違っていた。
 この前の義樹の姿はかなり引くものがあり、見られたものではない。だが今日はまだ許せる範囲の行動。この調子を維持しつつも、なるべくなら奇異な目で見られないようにするのが、義樹を扱う、最低限の目標だ。
 改めて意気込みながら、光二は足早に案内された席へと座る。そこは先週と同じ場所で、机を二つ並べた四人席。上手い具合に、店内の席はすべて埋まった。
「へへ、光二、いつ来るかな、恵美香ちゃんたち」
 一瞬、義樹の周りに花が飛んでいるかのように見える。だが、頭を横に振って我に戻ると、その幻覚はなくなっていた。頭を手に乗せて、肘を付きながら息を吐く。
「……本当にお前は幸せもんだよ」
「何が?」
「いや、別に……」
 メニューを見ながら、今週こそ飲み物を頼もうと思ったとき、また鐘の音が鳴った。そしてゆっくりとドアが開かれる。
「こんにちは、洋さん」
 その声を聞いて、義樹は音を立てながら、椅子から立ち上がる。頬が仄かに赤い。ふらふらと歩いていきそうな彼を慌てて腕を引いて、座らせる。
「こんにちは、恵美香ちゃん、水菜ちゃん。えっと、実は今日も……」
「あら、また席がないんですか? やっぱり日曜の午後は混むわね、水菜」
「二週連続か……。夏休みっていうのもあるかもしれないね」
 恵美香と水菜ががっくりと肩をうなだれている。洋はちらっと光二と義樹の席を見た。そして彼女らに話しかける。
「四人席に座っている人を詰めてもらって、二人席を二つ作るって言うこともできるけど」
「え、本当ですか?」
「うん、ただ彼らに聞かないといけないけど。少し待っていてね」
 恵美香と水菜を入り口付近で待たせて、洋は光二たちの元に近寄ってきた。今すぐにでも走り出しそうな義樹を必死に抑えつける。
「光二君、義樹君、あのね――」
「相席ですか! いいですよ!」
「いや、そうではなくて、この席を分けたいんだけど、いいかな?」
「分ける? まさか俺の恋路を――」
 暴走し始めたところで、光二が無理矢理待ったをかける。
「あのな、二回目とはいえ、まだ初対面に近い。相席なんかできるか。少し席を離してもらって、近くにいるだけでも十分だろ」
「けどよ……」
「ほらとっとと、奥の椅子に座れ。あの子に心の狭い嫌なやつだって思われたいのか?」
「おい、光二、奥の席に移動しろ」
 きりっとした表情に瞬間的に変化させて、義樹は光二に対して指図してきた。不満はあったが、グラスとメニューを持って何も言わずに従う。洋は申し訳なさそうに机の一つを少し離した。人が通れるくらいの距離を空け、台拭きでさっと水滴等を手際よくぬぐい去る。
 だいたい準備が出来たところで、再び洋は二人の少女の元に向かった。
「お待たせ。席の方を作ったから大丈夫だよ」
「ありがとうございます、洋さん」
「いや、僕より快く承諾してくれた彼らに言ってあげて」
 恵美香が不思議に思いながら、作ってもらった席の方を見る。その視線と義樹の視線があった瞬間、卒倒でもするかと光二は思ったが、予想に反して彼は固まっていた。また変わった行動に思わずニヤけそうだ。
 洋が二人を席に連れてくると、水菜が光二たちの方を見て、目を丸くする。
「あ、先週の二人組……」
「どうも。覚えてくれていたんですか」
「なかなか強烈な行動をしてくれたからね、一週間くらいじゃ忘れないわよ。先週はありがとう。おかげで色々とはかどったわ」
「いや、たいしたことはしていないから」
 軽く話したところで、二人は座り、洋から渡されたメニューを見始める。
 そして洋は振り返り、光二たちの方に向く。
「ご注文はお決まりですか?」
 それを聞いて、慌てて義樹からメニューをひったくる。ざっと見て、値段的にお手頃であり、自分も飲むことができるものを目安に瞬時に見極めた。
「……カフェオレのアイスを一つ」
「はい、わかりました。そちらは?」
 まだ動かない義樹を覗き込むように見る。そこで唐突に一週間前の出来事を思い出す。
 ――金持ってきたかどうか確認するのを忘れた!
 そのせいで、光二は恥ずかしい思いをしそうになったのだ。義樹のことだ、今回も懲りもせずに所持金百五十円とか言うに決まっている。
「義樹君……?」
 洋はあまりに反応がない義樹に対して、さすがに心配し始めたらしい。光二はとりあえず注文だけ済まそうと口を開いた。
「あとアイス――」
「オレンジジュース、一つ」
 光二が驚くまもなく、洋は「わかりました」といって、その場を後にした。目の前には水を飲み干している少年。先ほどからの固まりようは溶けたらしい。金はあるのかと聞こうと思ったが、すぐ傍には義樹が気になっている娘がいる。さすがに可哀想かと思い、聞くのは控えた。
 少女たちも注文を頼み終えると、何ともいえない緊張が走る。
 義樹は何もしゃべらず、ただ水をちびちび飲んだり、手持ち無沙汰にメニューを見たりしている。今までとは真逆の消極的な行動に光二はただ唖然とするばかり。
 隣では少女たちが楽しそうに話をしている。何だか空気が違いすぎて、羨ましく思えた。
「光二君、何だか疲れたような顔をしているけど、大丈夫?」
 洋が氷と中身を上手い具合に配分させたアイスカフェオレを光二の前に置いた。義樹には爽やかに彩っている搾りたてのオレンジジュースを。
「人のテンションに左右されていたら、少し疲れてきて」
「それは大変なことだ。まあ、ある程度自分のペースは守った方がいいと思うよ」
「ご忠告、ありがとうございます。あ、英語の勉強、見てくれますか?」
 洋はちらっと店内の客の様子を見た。他の人のグラスはまだ半分以上飲み物が入っている。
「大丈夫だよ。恵美香ちゃんたちの飲み物を持ってきた後なら」
「わかりました、お願いします」
 洋に言われたとおり、義樹のことなど放っておいて、自分のことをしようと思い、鞄の中から塾のプリントを取り出した。長文読解のプリントと文法のテキスト。授業はこれを平行してやりつつ、終わる前に単語テスト。ひたすらその繰り返し。まだ二週間も経っていないが、飽きそうになっていた。
 気が付くと、隣で水菜がオレンジ色のテキストを見つめている。そんなに物珍しいものなのだろうか。
「何か?」
 思わずぶっきらぼうに聞いてしまう。水菜はテキストをまじまじ見ながら、言葉を漏らす。
「そのテキストに書いてあるマーク……、あなたもしかしてイースト進学塾に通っているの?」
 中央に大きく描かれているマークから塾の名を指摘されて、目を丸くする。
「そうだけど。どうしてそうわかるんだ?」
「それはわかるわよ、私もその塾に通っているから」
「え?」
「コースは違うみたいだけどね。私はただの選抜コース、特別選抜コースじゃなくて」
 一気に入り込んでくる情報に、光二は一瞬困惑した。
 イースト進学塾はこの地区では昔からあり、有名で実績もある塾だ。ここら辺で塾に行くとなったら、そこの塾か他にある大手の二つぐらいである。
 だから同じ塾など、驚くべきことではないのだが、引っかかるところは別にあった。
「どうしてコースまでわかるんだ?」
 テキストには特に明示されている部分はないはずである。だが水菜は不思議そうに首を傾げた。
「知らないの? コースによって、テキストの色、違うのよ。特別選抜コースはオレンジ色、選抜コースは黄緑色だって。自分の周りしか見えていないなんて、少し観察力がなさすぎるわよ、高山光二君」
「へ?」
 突然言われた光二のフルネームに、思わず間抜けそうに口をぽかんと開けてしまう。それを見ると水菜はくすっと笑った。
「どうしてそれを……」
「さっき裏表紙に書いてある名前が見えたのよ。本当に自分のことに関しては抜けているのね。あんなに理科は優秀なくせに。――私は鈴原水菜。英語が不得意なイースト進学塾に通っている受験生。それはもう笑える程に成績悪くて。だから、洋さんに教えてもらっているの。ねえ、洋さん?」
 お盆にアイスティーとミルクティーを乗せた青年に呼びかける。洋はすぐに状況を理解し、軽く頷いた。
「ああ、そうだよ。主に水菜ちゃんに英語を教えているんだ。恵美香ちゃんは、英語が得意だし、理解が早いからね。教えることがなくなってしまうよ」
「それって間接的に、私の頭が悪いってことじゃない」
 水菜がふてくされながら、洋に返答する。それを謝り、受け流しながら、飲み物を置いていく。
「ねえ、そちらの彼女もイースト進学塾なの?」
 光二は視線を水菜から恵美香へと持っていく。すっかり勢いをなくしてしまった義樹に対して、少し刺激を与えようと敢えて振ってみたのだ。
 恵美香はおっとりとした様子で柔らかに受け答える。
「いいえ、私は塾には通っていないわ。家庭教師をつけてもらっているの」
「へえ、家庭教師か。大切に育てられているんだね。さぞ素敵なご両親で。……ちなみにお名前は?」
「私? 私は池中恵美香。初めまして」
 柔和な笑顔で挨拶をした。その声に反応して義樹が視線をちらっと上げる。
「ねえ、そちらの素敵な彼もよければお名前を伺ってもいいかしら?」
 義樹はそう聞かれると、がらりと雰囲気を変えた。意を決したように顔を上げると、口を大きく開いた。
「俺の名前は松原義樹。――恵美香ちゃん、あなたのような素敵な人と出会えて光栄です! よろしければ今後も仲良くさせていただけませんか?」
 義樹が丁寧すぎる言葉を使いつつ口説いているのを見て、光二は呆然としていた。すぐ側にいた洋も若干驚いている。
 ――本当にキャラ変わりすぎだろう! ていうか、初めての言葉でそんなに核心突いていいのか!
 だが彼女は嫌な顔一つせず、天使のように微笑んだ。
「ええ、いいわよ。よろしくね、義樹君」
 店内はどこか陽気な感じの音楽が流れている。
 そして搾りたてのオレンジジュースに浮かんでいる弾けた粒のように、義樹は嬉しさを顔の全面に出した。
  

 


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