夏の太陽の下へ


 

第1話 まずは水を一杯どうぞ (3)

 

   

「そういえば、義樹君はどうしてこんなに朝早くから来ているんだい?」
 お湯を煮立てながら、洋がふとした疑問を言葉に漏らす。光二も聞きたいと思っていた内容だった。
 質問された義樹は目を輝かせながら、洋の方に視線を送る。
「ねえ洋さん、昨日の女の子たちって、一体誰なの?」
 ――そういえば、こいつは何かにはまったら突っ走るタイプだった。
 光二は頭を抑えながら、義樹の意図を感じ取った。気を紛らわせるために、水を喉に通す。一方、洋は目をパチクリしながら、投げられた言葉を返す。
「昨日の女の子……、ああ、君たちが席を譲ってあげた女の子のこと?」
「そうそう、その子たち! 何て名前なの? 特にあのお嬢様の子」
「あの子は池中恵美香ちゃん。もう一人が鈴原水菜ちゃん。君たちと同じ――」
 洋の言葉を聞いて、思わず光二は水を吐き出しそうになった。それを堪えるために勢いよく水を飲み込んでしまったため、逆にむせてしまう。
「何だよ、光二、汚いな」
「べ、別にいいだろ。お前はいつもやっているじゃないか」
「そうだっけ? まあいいや。――それで俺たちと同じ何だっけ、洋さん」
 義樹は光二の奇異な行動に対して追及などせず、話を続けていく。
「中学三年生だよ」
「へえ、同じか……。そしてあの子、恵美香ちゃんって言うんだ。凄くお上品な感じ。さぞお嬢様で素敵な女性なんだね」
「まあ、とてもいい子だね」
「そうか……」
 義樹がヘラヘラとしながら妄想をしているようだ。普通なら注意するべきであったが、どうも光二は別のことが頭の中で引っかかっていた。
 洋が発した言葉の中に懐かしい響きがあったのだ。だが、少し違和感があり、本当に昔の響きと同じなのかはわからなかった。聞き間違いかもしれないし、ただの偶然かもしれない。
 そんなことを考えながら、グラスの中の氷が少しずつ溶けるのをただじっと見つめていた。
「光二君、義樹君、アイスティーにミルクやレモンは入れる?」
 洋が妄想にふけっている少年と、何やら思い詰めた表情をしている少年をちらりと見ていた。
 光二ははっとして、未だにぼけっとしている義樹をひっぱたく。何かが潰されたような、低いうめき声を出す。
「俺はストレートでいいです」
「最近、突っ込み激しいぜ、光二。俺、あんまり紅茶とか飲まないから、こだわりとかないんだけど。ああ、牛乳好きなんで、たくさん入れてほしいな」
「了解。もう少しだけ待っていて」
 洋はそう言うと、引き続き手際よく準備を進める。
 やがて、あっという間にアイスティーとミルクティーを運んできた。それを二人の前に丁寧に置く。
 細長いグラスの中に、氷が何段も積み重なり、それに紅色の液体が色鮮やかに流れ込んでいる。ガムシロップを少し入れ、ストローを差してかき混ぜてから、飲み始めた。
 上品な感じであるようにみえるが、口に含んでみれば非常に飲みやすい。何も抵抗などせずに、胃の中に入っていく。今まで飲んだアイスティーはどこか一歩近寄りにくい雰囲気があったが、これなら何杯でもいけそうだ。
「……美味しい」
 思わず漏らした言葉を聞いて洋は微笑んでいる。隣ではごくごくと何も感じず飲んでいる人もいるが今は気にしない。
「滑らかな舌触りで、あまり紅茶とか飲まない俺でも好きになれそうです」
「それは嬉しい誉め言葉をありがとう。お茶の方は専門ではないけど、勉強したかいがあったよ」
「え、専門では――」
「はあ、美味しかった! 洋さん、ごちそうさま。ねえねえ、恵美香ちゃんたちって、次にいつ来るかわかる?」
 一瞬でグラス一杯を飲み干した義樹は逸る心を抑えながら、洋を見つめていた。
「彼女らは日曜の昼はたいてい来るよ。そこで英語の勉強を教えたりしている」
「ええ、洋さんって英語できるの?」
「一応、英文学科出身だから、それなりに勉強はしたよ」
「へえ、何だかすごいな!」
「それほどでもないから。所詮過去のことだし」
 洋が頬をかきながら、どこか自嘲気味に答える。
 だが、中学の受験英語で戸惑っている彼らにとっては、尊敬に値することだった。
 義樹はこの通りと言っていいのかわからないが、勉強はほとんどしないし、光二だって英語は得意な方ではない。偏差値の高い私立や国立レベルの高校入試になれば、読むのだって一苦労である。それから内容を解釈するのはさらに時間がかかっていた。
「洋さん、頼めば俺にも英語の勉強を教えてくれたりする?」
 誘惑的な言葉に惹かれて、思わず発してしまう。だが返答は少し困惑気味だった。
「え、僕が? あまり勧めはしないよ。僕より学校の先生や塾の先生の方が色々とわかっていると思うし」
「……学校の先生も塾の先生もそりが合わないんです。それに、あの人たちに質問するの、何か苦手で」
 上から目線で生徒たちを見ている先生。本人たちはあまり自覚していないようだが、裏ではあまり近づきたくない先生として独走していた。それに比べたら、洋は非常に話しやすく、些細なことでも何でも聞けそうだ。
「忙しいなら、大丈夫です。本業は喫茶の運営だし……」
 少し一歩下がってみる。洋は腕を組みながら困った表情をほとんど動かさなかったが、即否定をする感じではなかった。
 じりじりと待っていたが、やがて軽くうなずいた。
「わかった。僕がわかる範囲なら構わないよ」
「ありがとうございます!」
 思わぬ収穫に、明るい表情以上に内心かなり喜ぶ。それが伝わったのか、洋は若干照れを隠していた。
 そのやり取りを横目で見ていた義樹はどこかつまらなそうだ。
「勉強ねえ、光二も好きだよな、本当に。俺たち、一応受験生だけど、まだ半年も先のことじゃないか。まだ気合い入れる時期じゃないと思うけど」
「まあ、実際の入試はまだ先だが、併願推薦とかの確約をもらうために、九月からの模試で点数を取る必要があるし、それに県立入試だって内申がいいのに越したことはない」
「はいはい、光二君は真面目だからね。……それくらい俺だって知っていますよ」
 その言い方に、光二は眉をひそめた。真っ直ぐな言い方ではなく、どこか歪めて、皮肉めいた言い方。楽しそうにサッカーボールを蹴ったり、誰かに夢中になっている少年ではなく、何かから視線を逸らしている姿。
 そんな義樹を見るのはほとんど見たことがないため、その後、どう会話を続ければいいかわからなかった。
 だが、その気まずい雰囲気を気遣って、打破してくれる人もこの空間にはいたのだ。
「二人とも、お水のお代わりは?」
 洋が氷を鳴らしながら、冷たい水を持ってくる。光二は首を横に振ったが、義樹はすぐにグラスを持ち上げた。
「もう一杯!」
「お腹の方は大丈夫? あまり無理して飲まないでね」
 そう言いながら、気持ち少な目に注ぎこむ。義樹はそれをまた一気に飲み干した。
 グラスを置くと同時に、急に備え付けの時計の中から鳩が鳴きながら飛び出してきたのだ。何とも可愛らしい時計であり、どこか張りつめていた空気が緩んでしまう。
「もう開店時間だ。看板出してこないと」
 洋は慌てて水が入ったポットを置き、入り口へと行ってしまった。
 あっという間に時は過ぎており、ようやく現実に引き戻される。光二は椅子から腰を上げながら、鳩時計を興味津々に見ている義樹に尋ねた。
「俺、洋さんに迷惑かけちゃいけないと思うから、もう帰るけど、お前は?」
 昼時は稼ぎ時でもある。そんな時間に中学生の男子に構っていられるほど、洋は余裕がないはずだ。もし義樹がわがままを言ったら、また無理矢理連れ出そうと思っていた。
「……そうだな、俺もそろそろ帰るよ」
「え?」
「何だ、その言い方。俺だって用くらいある」
 正直その言葉は意外すぎた。いつも今起こっていることしか考えていないように見えた義樹が、自ら予定を入れているなんて、今まであったことだろうか。
「何の用だ?」
 思わず恐る恐る聞く。義樹はグラスの中に入っている最後の一滴まで飲み込むと、口を開いた。
「――徹夜でやりかけたゲームが終わっていないんだよ」
「へ?」
「あのゲーム、面白すぎて止まらなくて、もう今すぐにでもやりたいんだ!」
 ――少しでも真面目な考えをした俺が馬鹿だった。
 見えないところで拳を固めつつ、己の苛立ちを押さえていた。
 看板を出し終えた洋が戻ってくると、立ち上がっている二人を見て目をみはっている。
「あれ、帰るのかい?」
「はい。開店前には出る予定でしたので、ここら辺で」
「俺も午後から用があるから帰るわ!」
 光二と義樹が次々と言っていくのを見ながら、洋は聞き入れた。
「わかった。たいしたもてなしできなくて、ごめんね」
「いえ、こちらこそ突然失礼しました。次は――」
「ねえ、洋さん、恵美香ちゃんたちは次の日曜にも来るの?」
 すっかり調子が戻った義樹は一目惚れした相手の動向を探ろうとしている。一歩間違えれば、よろしくない方向に転がっているのは目に見ていた。
「正確な時間はわからないけど、日曜のだいたい午後三時くらいにはいると思うよ」
 聞いた瞬間、義樹はガッツポーズを作りながら、光二の方に笑顔を向けた。
「よし、日曜の三時。光二、今度の日曜の三時にこの喫茶の近くのコンビニで集合な!」
「急に言うなよ、俺だって予定が……」
「ないんだろ。昨日言っていたのを覚えているぜ。『日曜は塾がないから家でのんびりできる』って」
 そんなどうでもいいことは覚えているなんて、すごい奴だなと思いつつ、溜息を吐いた。
「……わかったよ。日曜な」
「よっしゃあ! やべえ、今からわくわくしてきた。こんなに暑くても、夏を乗り切れそうだぜ!」
 ――お前の方が熱くて、周りが我慢できないよ。
 声にでそうになったが飲み込んで、光二の心の中にしっかりと留めておいた。
 義樹が意気揚々と外に出ていくのを後に追いながら、軽く手を振って出る客を見届けている洋にぽつりと呟く。
「本当にお騒がせしました。そしてこれからも、ごめんなさい」
「いいよ、僕は構わないから。またいらっしゃい」
「ありがとうございます。では、失礼します」
 名残惜しつつも、また炎天下の道へと出ていった。
 本当に外は暑い。だが、その暑さも何となくだがさっきよりも和らいだような気がしていた。
 ほんの少し明日への楽しさが見つけられたようだった。


 * * *


 義樹と早々に別れて、光二は家に帰り、塾の予習をしてから、塾の講習に出るために夕方再び家を出た。
 夏期講習――それは受験の天王山とも言える猛特訓講習である。
 夏の始めであり、まだ部活動に所属している生徒を考慮しているため、夕方始まりであった。だが、日が経ち、八月の半ばになれば、一日超猛特訓講習という、一日拘束の日々がやってくる。これからは家と塾との往復の生活が待っていると思うと、少しは勉強が好きな光二でさえ憂鬱であった。
 どうにか集中力を切らせないように数学の授業を二時間聞く。今日は関数の問題を解き、解答を聞いて、それをひたすらノートに写す。時に自力で正解まで持っていければ爽快であるが、ほとんどはそうはいかないものだ。
 ようやく数学の授業を終え、英語の授業までの休み時間、飲み物を買うために近くのコンビニまで歩いているときに光二は思わず立ち止まった。見知った顔の少年が道路の反対側を歩いているのだ。
 何かを考え込んでおり、そしてどこかうなだれている少年――義樹がいた。
 どうしてこの時間に、そして何故ここにいるかとか、色々な疑問が一気に溢れる。その理由を聞くために、すぐにでも向こう側に渡ろうと横断歩道を探したが見つからなかった。
 道路を横切るかと思ったが、車が何台も目の前を通っていき、渡るに渡れない。
 ただ光二は義樹がどこかに行くかを見届けるしかできなかった。
 だがそれも時間が無情にも遮ってくる。
 もう次の英語の授業の始まりだ。塾の友達に促されながら、義樹のことを横目で見つつ、しぶしぶと建物の中へと戻っていった。
  

 


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