夏の太陽の下へ


 

第2話 搾りたてのジュースと共に (2)

 

   

 「ちょっと、恵美香!」
 二人によって作りだされた独特の雰囲気に、置いていかれている一人の水菜は、目の前のおっとりとした少女に呼びかける。
「何かしら、水菜」
「こんな得体の知れないやつに何を言っているの! そんなこと言ったら、いつまでも着いてくるわよ、それこそストーカーみたく」
「ええ? 彼はそんなことしないわ」
「どうしてそんなこと言えるの。保証がないじゃない!」
「はっきりと確証がないから、そう取られてしまうかもしれないけど……。私の直感よ。まあもし私にとって嫌なことをしてきても、大丈夫。ね、水菜?」
 少し含みのある笑みを浮かべる。それを見た水菜は何か思い当たりがあるのか、渋々と口を開くのをやめた。そして肩をすくませて、一息吐く。その仕草はどこか共感できるものがあった。
 今の恵美香と水菜のやりとりで何となく二人の関係が垣間見た気がした。押しが強そうに見える水菜だが、本当は恵美香の方が強いのではないか。そしてそれを強引に押し切られ、仕方なく賛同せざるを得ない状態になり、溜息を吐く――。どこか光二自身と義樹を見ている気がしてならなかった。
「ねえ、恵美香ちゃんたちってどこの学校?」
「そういう義樹君たちは?」
「俺たちはね……」
 意外にもすっかり意気投合してしまった二人は、脇に置いておくことにした。どこかやり切れない状態であった水菜も、その二人に付き合うことはやめて、光二の方に視線を向けている。
 光二は長文のプリントを広げて、とある英文を洋に示した。
「この訳し方がよくわからないんだけど、何かポイントとかあるかな?」
「どれどれ……」
 洋は赤字が入ったプリントを持ち上げて、英文に目を通し始めた。
 英文学科を卒業した彼にとっては、簡単なものだろう。もしかしたら簡単過ぎて彼は光二のことを馬鹿にしているかもしれない。内心かなり心配であった。
 特別選抜とはいえ、英語に限っては下の方。本当にこの教科が悪いだけで、下のコースに行った方がいいのでは、と担任の先生、もとい英語の先生に言われるのだった。
 洋はざっと英文を見渡すと、少しだけ考え込んだ。
「これは……関係代名詞が上手く訳せなかったようだね。あとは語彙が正確に覚えられていない。だからこういう風にちぐはぐな意味合いになっているんだ」
「そうですか……」
「関係代名詞とかはまだよくわからない時期だと思う。でもこれは高校、そして大学受験でも絶対に使うから、今のうちにある程度基礎を作っておけば、必ず後々に生きる。今は焦らず、一つずつ消化していこう」
「ありがとうございます、洋さん」
 どこか心が温かくなるような言葉だった。ただの助言だけではない、しっかりと次を見据えた言葉。塾の先生に嫌みったらしく指摘された問題とはいえ、それはそれなりに意味があるものなのかもしれない。
 その後、光二は一週間分の問題でわからなかったところを次々と洋に質問していった。同じく洋に質問をしにきた水菜と共に。わかりにくかった問題を丁寧に教えつつ、語句のわかりやすい覚え方などを楽しく教えてくれる。
 途中で洋が喫茶の業務に戻っているときは、水菜と一緒にお互いのテキストを見比べたりもした。
 そして義樹との話がひと段落したのか、恵美香も混じってくる。つまらなそうな顔をしている義樹もいつしか洋の言葉に耳を傾けていた。勉強なんて嫌い、と断言している彼がそのようにしているのは非常に珍しい。それほど魅力的な説明なのだろう。
「どうもありがとうございました。またお越しくださいませ」
 洋が客に挨拶をしているのを聞いて、光二はちらっと店内を見守っている鳩時計に目をやった。もう午後五時過ぎだ。いつのまにこんなに時間が経っていたとは。
「今日はいつもより時間の進みが早い。結構話は聞いたけど、質問したいことはまだたくさんあるなんて……」
 水菜がげんなりしながら、恨めしそうに英語のテキストに目を落とす。光二の方が多く質問してしまったため、そのような差が付いてしまったのだ。
 洋は残っていた他の客を見送って、時計と外の様子を見ながら、光二たちの元に近寄ってきた。どこか神妙な顔つきで、かしこまっている。
「ねえ、少し時間はあるかな? もしよければ君たちに味見をしてほしいものがあるんだ。授業料の代わりと言ったら変だけど、感想を聞かせてほしい」
「味見? もちろん食べる、食べる!」
 真っ先に声を上げたのは言うまでもなく義樹。手を挙げながらはつらつと返事をした。それを聞いた洋はどこかほっとした顔つきになる。
「ありがとう。せっかくの時間にごめんね」
「そんなこと言わないでくださいよ。私たちが無理言って頼んでいることだし。洋さん自信のことを優先してください」
「水菜の言う通りですよ。何だか小腹も空いてきちゃったし、是非頂きたいです」
「私も」
 少女たちはあどけない顔でクスッと笑いながら、お互いの顔を見合わせた。恵美香の言うことももっともだ。急に緊張の糸が切れてしまったため、同時にお腹も一気に空いてしまった。
 洋はカウンターの中へ戻り、冷蔵庫から小さなお皿を二つ取りだした。それをしっかりと持ちながら運んでくる。そして机の上にそっと置いた。
 その皿の上にあったのはこぢんまりとまとめられた、掌に乗りそうなくらいの四角いケーキ。
 全体はチョコレートムースで覆われており、上にはチョコレートのカケラが刺さっている。そしてケーキの周りにもチョコソースが滑らかな曲線を描いていた。
「……チョコレートケーキ……だよなあ」
 義樹が思わず息をのむ。すぐにフォークを突き刺しもせず、見つめていた。
 この喫茶店には飲みもの以外にもデザートとしてケーキも売られている。だがそれはホールで作られたのを切り分けたものであり、チーズケーキやタルト、シフォンケーキなどが主であった。個々に作られているものはないため、この場に出てくるのは何だか不思議である。
「これ、洋さんが作ったんですか?」
 同じく見惚れている少女たちをよそに光二は思ったことを口にする。
「そうだよ。自分の店に他の人が作ったケーキを置くかい?」
「いや……それにしてもすごいなと思って」
 普通の喫茶店で売られているレベルではないだろう。少し高めか、それ以上のケーキ専門店で売られている程かもしれない。
 洋はケーキを目の前にして手を動かさない中学生たちに、困惑しながら言葉を漏らす。
「外見をじっくり見てもらうのも、それはそれで嬉しいけど、やっぱり味で判断してほしいんだ。だから、早く他のお客さんが来る前に食べてほしい」
 どこか時間を気にしていたのはそのせいでもあったのか。だがそれなら尚更疑問が残る。
「俺たちでいいんですか? これって試食ですよね、いわゆる。それならもっと味がわかる大人に――」
「今回のケーキは子供、特に思春期くらいを対象に考えて作ったんだ。甘さとか中身を気にして。だから君たちの意見が欲しい。だけどこの状況を他の人に見られると、少し居心地が悪いからね。――さあ、食べて。本当に率直な感想でいいから」
 急かされるように、四人はフォークを手に持ってケーキに刺した。そして一口程度に切り、口の中へと入れる。
 入れた瞬間、チョコレートの甘さでいっぱいになった。まろやかな口どけ、柔らかなスポンジ、絶妙な甘さなど、一口だけでもかなり味わうがいがある。
「美味しい……。そこら辺のチョコレートケーキと違って、とても濃厚だわ」
「チョコ系って、どうも甘さとか苦さとか微妙なことがあるけど、これはちょうどいいって感じ」
 恵美香と水菜が次々と率直な感想を口にしていく。それを洋はいつになく真剣な顔で聞き取っている。一同は二口目、三口目と続けていく。同時に光二にも視線が注がれているのに気づいた。それに促されて慌てて感想を出す。
「な、何て言うか、とろける感じだよな、このムースとか」
 普通のチョコレートケーキとは言わず、むしろムースと言った方が正しいのかもしれない。
 肯定的な意見を聞いた洋はいささか安堵したように見えた。試作品を人に出すのはとても度胸のいることだろう。しかも自分とは違う年代を対象にしているのなら、一層そうだ。
 だがよく考えると、一人だけケーキを口にしてから、何も言葉を発していない人物がいるのを思い出す。光二は前に座っている少年をちら見した。
「義樹君、どうかな?」
 洋も光二が見たのと同時に意見を求める。だが義樹は何口か食べた後はフォークを持ったままだ。
 それはまたしてもかなり珍しい様子だった。何に対してもがっつく少年が大人しくしているとは。義樹は首を傾げながら、ケーキを指す。
「……俺、ケーキは好きだ。チョコレートケーキも好きだ。けどこのケーキ、何かが違う」
「え?」
 知らずに光二はポロリと言う。
「美味しいと思う。でも少し甘すぎね?」
「義樹君、そんなに甘いかしら。とてもいい具合だと思うわ。紅茶と一緒に食べたらきっと合うわよ」
「恵美香ちゃん、そうかもしれないけど、俺は紅茶とかほとんど飲まないぜ。飲まないものを進められても何だかなと思うけど」
 光二にとって今の言葉はかなり意表を突かれた。確かに紅茶には合うが、オレンジジュースや甘いジュースには合わない可能性がある。敢えて対象を考えたとすると、若干の疑問点が残るだろう。
「……ありがとう、義樹君。これだとただの大人相手のケーキだよね」
 洋は少し寂しそうな顔で口ごもる。どうやら彼が求めていたものと何かが違っていたらしい。だがそれでも間違いなく言えるものがあった。
「けど洋さん、美味しいよ、このケーキ。だから、もっと食べたい!」
 けろっと図々しいことを言う義樹に、一同はずっこけそうになった。洋は苦笑いをしながら、口を濁す。
「ごめんね、それだけしか作っていないんだ。試作品だから、あまり数は作らないからね」
「そんな……。なあ光二、あとどれだけ食べる?」
 義樹は子犬のような目で光二を見つめてくる。
 ――そんな目をされたら白旗を揚げるしかできないだろう!
「……いいよ、残り全部食べろよ」
「ありがと! さすが、よくわかっているな!」
「……嫌でもわかる」
 そして意気揚々と義樹は残りのケーキを食べ始める。さすがの彼も少女たちの方には手を付ける気はないらしく、特に恨めしそうに見てはいなかった。その隙に恵美香と水菜も残りをぺろりと食べ上げる。
 やがて、空になった皿を洋が手にしようとしたとき、喫茶店の入り口のベルが、鳴り響いた。
 

 


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