夏の太陽の下へ


 

第3話 挟まれる想い (3)

 

   

 * * *


 洋が喫茶店を早く閉店させた翌日、いつになく天気はどんよりしていた。空は灰色の雲に覆われ、朝から生ぬるい風が肌にべとつく。気温は高いが、乾いた風が吹いていた暑い天気よりも、こういう天気の方が光二にとっては嫌であった。
 なぜなら、その天気と共に、何となくもやもやした感情も浮かび上がってしまうからだ。
 手早く昼食を済ませると、塾のテキストを数冊と折りたたみ傘も鞄に詰め込んで、光二は外に出た。雨が降りそうな気配ではあるが、まだ降った形跡はない。
 鬱々とした気分になるのを振り払うかのように、光二は自転車に跨ぎ、一生懸命ペダルを漕ぎ始めた。
 ランチの時間帯が過ぎた頃に、光二は喫茶店に辿り着いた。自転車を停めている間に、髪を揺らしている水菜が自転車のベルを軽く鳴らしながら、光二に近づいてくる。それを軽く手を振って受け返す。
「偶然ね、特にはっきりと時間は決めていなかったのに」
「だいたいは検討が付くだろう。ちょうど空きそうな時間を考えれば」
「さすがよくわかっているね。今日は洋さん、通常営業だから、ゆっくりと夕方までいられるよ。まあまた明日から休みだけどね」
 店の前にある看板を見ると、営業時間と共に、お盆週間の休日案内のちらしが貼られていた。その始めの方には、昨日のことも書かれている。それを横目で見ながら、店内へと入っていった。
 予想通りそこまで混んではいなく、すぐに席に案内された。月曜に来たことに多少驚いていたが、すぐにお盆だとわかり、納得したようだ。
 席は日がよく当たる場所ではあったが、今の曇り加減からはその面影はない。
 いつも通り、まず飲み物を注文し、出てくるまで待っていた。その間、水菜と話をしていたが、意識はどこか洋の方へと向けられている。手際よく準備をしているのが見えるが、どこか表情に元気がない気がした。
「ねえ、ちょっと、ちょっと」
「あ、何?」
 慌てて意識を水菜の方に戻す。少し頬を膨らませている少女がいた。
「洋さんのことが気になるのはいいけど、私のことも忘れないでよ」
「ごめん、つい……」
「……まったく変わらないのね、誰にでも心配するのは」
「何だって?」
 ぼそりと言った内容がよく聞こえなく、聞き返してしまう。だが水菜は何でもないかのように、すぐに小さく首を振った。
「何でもない。さて、昨日の分を取り返すべく、たくさん質問しようか」
「そうだな」
 水菜は鞄からテキストを取り出した。そして雑談を交えながら、勉強をし始める。
 比較的店内は空いていたため、すぐに洋の手も空き、勉強に付き合ってくれた。教え方の巧さは健在である。一字一句聞き逃さないと必死にメモをした。
 一時間ほどして、義樹もやってきた。すでに二人が親しく勉強しているのを見て、口を尖らせていたが、洋のいつもと変わらない様子にほっと胸を撫で下ろしているようだ。
 外では徐々に分厚い雲が覆われ始め、いよいよ雨が降りそうな気配を漂わせている。
 店内もそれを危惧して、客のほとんどが店を後にした。まだ閉店一時間前であるが、もう光二たちしか残っていない。
「雨、降りそうね」
 ペンを持ち、窓の先の景色を見ながら、水菜は呟く。義樹はそれを聞いて口をあんぐりと開け、一人だけ衝撃を受けていた。
「雨だと? そんな話、聞いてねえ。傘なんて持ってきてないぞ!」
「一週間前から、予報では雨が降るって言っていたじゃないか。そのくらい、テレビを見ていればわかるだろ」
「見てねえって。昨日言ってくれればよかったのに……」
「知るか、そんなこと」
「本当に光二って、冷たいよな」
「今頃気づいたか。馬鹿だな」
「な……!」
 義樹がわなわなと口を震わせていたが、それを素知らぬふりをして、テキストに目を向ける。
 そんな中で、ドアベルが店内に響きわたった。こんな時間に誰だろうと思い、顔を上げると、バレッタで髪を一つにまとめ上げた綺麗な女性が立っている。
 柔らかな素材でできている半袖、七分のズボンを着こなし、颯爽と中に踏み入れた。
「いらっしゃいませ、お一人ですか」
「ええ」
「わかりました。では席にご案内いたします」
 女性はどこか探るような目で案内をする洋の背中を見ている。その様子は今まで喫茶店に訪れた人々とは、まったく別な気がした。
 この前青年が案内された席へと促され、洋が水を持ってくる間に、軽くメニューを眺める。そして持ってきた洋に対して注文を言った。
「紅茶と季節のタルトを一つ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
 タルトまで注文するとは、少し驚いた。時間や雰囲気からして、紅茶だけで済ましそうな気がしたのだ。
 両腕を机の上に付きながら、女性は店内を見渡しつつ、洋を視線で追っていた。
「洋さんの噂を聞きつけて来た人かな」
「噂って?」
 水菜がぽつりと漏らしたのをしっかり聞き取り、質問し返す。
「街角の一角に素敵な青年が喫茶店を経営している噂よ。洋さん、格好いいだけでなく、すごく優しくて素敵でしょ。女性としては憧れの男性よ」
「確かに、男の俺でもいい人だと思う」
 素直な感想だ。だが、そうだとしても、少し普通とは違っている気がした。
 洋が紅茶とタルトを持ってくると、彼女の視線はタルトへと真っ直ぐ向けられる。ホールを切り分けられて出している季節のタルトはケーキの中でも人気が高く、売り切れてしまうことも多々ある。
 それをフォークで刺して食べ始めた。女性は一口一口味わいながら食べている。タルトの上に乗っているフルーツも丁寧に口に運んだ。だがあるフルーツを前にして、フォークが止まる。
 それは夏みかんだった。
 よく熟した夏みかんで酸味もある。ほんの少し止めていたが、すぐに夏みかんとタルトを共に口の中に放り込んだ。味わいながら食べ、紅茶を一口含ませる。
 やがて女性はタルトを平らげたところで、フォークを置いた。
「……上原陽洋さん」
 水が入ったポットを持って近づいていた洋はその言葉を聞いて、一瞬身を堅くした。この喫茶店では本名で呼ばれることはほとんどないことだ。
 女性はゆっくり顔を上げると、洋を正面から見る。彼女の瞳は揺れており、どこか困惑した様子が感じ取られた。
「上原陽洋さんですよね」
「そうです。失礼ですが、あなたは――」
「忘れてしまいましたか。もう三年の月日が経ちましたものね」
「三年――!」
 洋の表情が一転する。机にポットを置くと、丸くした目を女性に向けた。
「君はもしかして晴美ちゃん?」
「思い出しましたか。そうです、小川晴美です。小川夏美の妹の」
 晴美は淡々と声を発した。それを聞いた洋は驚愕の表情をしている一方で、拳が微かに震えているようだ。
「晴美ちゃん――、どうしてここに?」
「偶然、友人から爽やかな青年が経営している喫茶店の存在を聞いたんですよ。いい茶葉を使っているため飲み物はどれも美味しい。独特の癒しの空間。何よりケーキがとても美味しいと。雑誌に掲載されていないのが不思議なくらいだって」
 確かに、この店内には雑誌で紹介されたページの紹介などはない。客のほとんどが口コミだと聞いている。口コミだけではもったいないレベルなはずなのに。
「私もその言葉に惹かれて、一度入ってみようと思いました。ですが、入り口であなたの顔を見て、驚きすぎて中に入れませんでした。ここにいるはずのないあなたが、いるということに」
 グラスに入った氷が少しずつ溶けていく。洋は歯噛みをしながら、視線を横にずらした。
「……どうして、こんなところにいるんですか。あなた、最後に会ったときは、行くって言ったじゃないですか!」
 晴美は机を両手で叩きながら、立ち上がった。彼女の目には薄ら涙が溜まっている。
「嘘だったのですか、あの言葉は! 姉への想いを踏みにじったのですか!」
「違う!」
 ぴしゃりと晴美の声を遮った。だが依然、洋の表情は揺れている。
「違う。――夏美の想いは踏みにじっていない。これは確かだ」
 悲痛そうな顔で言う洋に、晴美はすっかり勢いを削がれてしまい、再び椅子に座った。
「昨日の花を見て、あなたがまだ姉のことを想っていることはわかります。そしてこの喫茶店の名前からも伝わってきます。……けど、それなら何故まだ日本にいるのかが疑問に思います。どうしてですか?」
 洋は質問にも答えずに、黙り込んでいた。それが正しい行為ではないのはわかっているのに、敢えてそうしているようだ。出す言葉が見当たらないのか、本当に言えないのか。
 何も反応のない洋を見て、晴美は財布を取りだし、机に代金を置いた。
 荷物をまとめて立ち上がり、俯いている洋の横から囁く。
「ごちそうさまでした。ケーキ、美味しかったですが、まだ躊躇いがあるように感じます。――また来ます」
 そう簡潔に言うと、哀愁の顔をしながら、洋に背を向けて出ていった。それを振り向きも、追いかけもせず、彼は立ちすくんでいた。


 重い空気が流れる中、唐突に氷が動いて、グラスに当たる音が響く。そしてそれを皮切りに、突然雨が外の地面や喫茶店の屋根を叩き突きつけ始める。
 夕立だ。
 一瞬で外は雨の世界へと変わる。どんよりとした雲は、さらに人々の心に憂鬱をもたらす雨へとなった。
 その音によって、止まっていた洋の体は動き始め、代金をポケットに入れて、皿を片づけ始める。
 ずっと二人の会話を聞いていた、少年少女たちはお互いに見合う。その中で義樹は残っていたジュースをストローの音を立てて吸い始める。
 それを聞いた洋はやっと三人の存在を思いだし、若干気まずい表情をした。
「あ……ごめん。今の話、全部聞いていたよね」
「そりゃ、隠れる場所もないからな、聞いちゃったよ。なあ、光二に鈴原」
 躊躇いもなく言い返す義樹に顔が引きつりそうだった。
「あ、ああ……。すみません、洋さん。聞くつもりはなかったのですが……」
「――いいんだよ、別に。気にしないで」
 だが返す表情はまったく笑っていない。おそらく洋にとって、隠したい過去の一角なのかもしれなかった。光二たちより付き合いが長い水菜でさえも知らない過去。軽く踏み込んだだけでも、こちらの心も痛い。
「そういえば、洋さんって、ケーキの方が専門なのか? ほら、ケーキを専門で作る……、何だっけ」
「洋菓子とかを専門に作るパティシエ」
「そうそうパティシエ。それ目指しているの?」
 こうも空気も読まずに、遠慮なく自分の聞きたいことを質問する、義樹がある意味羨ましかった。
 洋は直球で質問してくる、義樹に対してきょとんとしている。そして数瞬の間を置くと、皿を洗う手を休めて、三人に近寄ってきた。
「そうだよ、僕はパティシエを目指していた。あるパティシエを目指していた人が作ったケーキに見惚れて、その道を考えていた」
「考えていたってことは、今は考えていないんですか? けどこの前、私たちにとても美味しくて、見た目も綺麗なケーキを出してくれたじゃないですか」
 疑問を口にする水菜。それを聞いた洋は微笑んだ。
「よく覚えているね、そのこと」
「覚えていますよ。今まであんなケーキ食べたことがなかったから。何があったか知りませんが、まだ諦めたように見えません」
 はっきりと言い切る水菜の声はとても力強く、人の心を動かす一声になる。
「諦めていない――か。逆に諦めたらどんなに楽だったのか」
 呟く声はどこか自嘲気味。何かを悔いているのが聞いている方でも感じ取れる。光二は意を決してこの店の根本的なことを尋ねた。
「洋さん、どうしてこの喫茶店を始めたのですか?」
 時計の秒針が一定の周期で動く音が聞こえる。
 だが外の雨によって、一瞬で消されてしまう。
 どこか不可思議な状況の中、洋は重い口を開いた。
「始まりは――君たちと同じ歳に出会った少女とだった」
 やがて止まっていた過去が少しずつ動き始める――。
  

 


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