夏の太陽の下へ


 

第3話 挟まれる想い (2)

 

   

 やがて食べる速度を少し落としつつ、光二は水菜と向かい合いながら話をし始める。家族や学校のことなど、他にも色々と雑談をしつつ、穏やかな時間を過ごす。
 時間が経つにつれて、人々の装いも変わってきた。家族連れがいたかと思えば、親しい男女、友達同士など、様々な種類の関係がいる。
 また、幅広い年代がおり、光二たちのような学生から、子育てにひと段落した年代までいた。このような状況は、他で経営している喫茶店ではそうはいかないものである。立地条件や喫茶の内容などで、どこか客層に傾きが生じてしまうものだ。
 しかし、洋の人望や、巧みなメニュー、そしてこの喫茶店の素敵な雰囲気によって、どの人でも来やすい空間を作り出しているのかもしれない。
 光二はそんなことを考えつつも、サンドイッチをあっという間に食べ終え、水を飲みながら、水菜と何気ない会話を続ける。
 少しして二人の会話が途切れた時、水菜が塾で使っている理科のテキストを取り出し、今度はそれを元に二人で勉強し始めた。光二が使っているものより難しくはないが、それでも学校では教え切れていない問題ばかりである。
 問題を読んで答えを出し、その過程を簡単ではあるが、自分が考えた解き方を通じて、水菜に説明した。それに対して、相槌を打ちながら彼女は聞いている。
「へえ、こういう意味だったんだ。授業で聞いても、すぐに次の問題に行くから、理解しきれないのよね」
「そうそう。とにかく塾は問題数をこなすことに一生懸命だから、その場で理解しないと難しい。それか家に帰って復習するのもありけど、全部の教科をじっくりやっていたら時間が無いな」
「そういうあなたは、その場で理解しているんでしょ。すごいな。どうしてそんなに勉強ができるの?」
「勉強ができるっていうか、そうでもないけど……」
 羨ましそうに見てくる水菜だが、光二は複雑な気持ちであった。
 勉強はする方ではあるが、ただ単に言われたことをこなしているだけである。こなすことで成績もそれなりに上がり、塾のコースも上に入れてもらえた。
 しかし、さらに勉強する人はもっといる。成績が伸び悩み始めた光二にとって、その人たちの存在は恨めしくもあった。そして勉強をすることに対して迷い始めるきっかけとなっているのだ。
「どうしたの? 表情が暗くなっているよ」
 水菜が心配そうに顔を覗きこんでくる。その視線に気づき、光二は軽く首を横に振った。
「いや、何でもない」
「何でもない? そんな顔していなかった。私でよければ話を聞くよ」
 真摯な目を向けてくる。彼女なりの気の使い方なのかもしれない。
 同じ塾に通い、選抜コースである水菜ももしかしたら同じ悩みを持っているかもしれない――。だが、そうだとしても、これを直接話すのは気が引けた。もう一つ別に考えていることを尋ねてみる。
「……鈴原は、どこの高校に進学希望なんだ?」
「私? 私は塾のコースの通り、隣の市にある県立高校。弟がいるから、なるべく学費は安くって言われているの」
「あの県でもトップに入る県立高校か。都内には近くても、県立思考は変わらない人が多いのか」
「県立だからっていうわけでもないわよ。パンフレット見たり、話し聞いていたりすると、楽しそうだからね。今度文化祭に行って、最終的に決めるつもり。学力とかは二の次よ」
 そうは言っても、成績や偏差値は気にしているだろう。光二に理科を教えてと言ってきたことからもわかることだ。
「ねえ、そういう君は? やっぱり難関国立か私立を狙っているのよね」
「まあ、そうなるかな……」
 少し曖昧に返事をした。その様子に水菜は首を傾げる。
「違うの?」
「どうなんだろう。正直言ってよくわからない」
「え?」
 視線を下げ、コップを横に振って中に入った氷をからからと鳴らす。氷同士がぶつかることで、少しずつ砕けていく。本当に些細な出来事なのに、最終的には氷が溶けてしまう一つの要因となるのだ。
 光二は溶けてできた水を少しだけ喉に通す。そして目を丸くしている水菜とその下にある空のコップを見た。
「水、お代わりしようか」
「そ、そうね。すみません、洋さん!」
 お皿を片づけている洋を呼び止めると、さっと近寄ってきた。
「何かな?」
「お水のお代わり、もらえますか?」
「はい、ちょっと待っていてね。――ああ、そうだ。このお皿を洗い終わったら手が空くから、少しだけだけど勉強見るよ」
 いつの間にか店内にいる人々は読書をしながらコーヒーを飲んでいる、女性だけとなっていた。午後二時過ぎ、昼のピークは過ぎたが、それにしても早い減りようである。
「少しだけって、まだ二時じゃないですか」
「あれ、光二君、表の看板見なかったの? 君らしくないね」
「看板?」
「今日は事情があって三時で閉めるんだ。その様子だと、先週も言っていなかったね。ごめん」
 気づかなかった事実を聞かされ呆けている光二を見て、洋は両手を合わせて申し訳なさそうな顔をした。彼の仕草を見て、慌てて両手を振って否定する。
「洋さん、別に大丈夫ですから! まあ義樹はこの事実を知らずにのこのこ来そうだが……。まあ、池中もいないし、たいしたショックは受けないだ――」
「ちょっと待て! 何だ、その話は!」
 光二の表情が瞬間的に引きつった。馬鹿みたいに大きく、他人の迷惑など考えたことがないであろう声が耳に飛び込んでくる。そういえば、光二が口を開いている途中で入り口のベルが鳴った気が……しなくもない。
 意を決して振り返ると、予想通り口を大きく開けている義樹がいたのだ。
「よ、洋さん、今日はもう終わりってことか? それに恵美香ちゃんがいない? そんな……、俺の日頃の行いがそんなに悪いのか!」
「いや、関係ないって。ていうか、悪いから」
「そのくせ、光二は勝手に鈴原といちゃいちゃと仲良くやっているし。何たる不公平さ!」
「ただ席が埋まっていたから、相席しただけだから。誰がいちゃいちゃだ、勘違いするな。いい加減に黙っていろ!」
 光二は立ち上がり、義樹のみぞおちに拳を入れ込んだ。うめき声を出しながら、腹を抑えて座り込む。何か言いたそうだったが、声を出すのも躊躇うほど、痛いらしい。
 そんな義樹の姿を見もせずに、光二は苦笑いをしている洋の方に向いた。
「すみません、馬鹿が声を荒げてしまい」
「いや、別に僕は構わないけど。いいのかい?」
「いつものことなので、放っておいてください」
「そう、わかったよ」
 洋は大人しく光二に従うことにしたらしい。
 水菜はいつも邪険に扱っていた突然の乱入者に対して、珍しく気の毒そうな顔をしていた。
「……君も大変そうね、きつい突っ込みが相方だと」
 目を白黒させている義樹に同情の言葉を送った。
 やがて洋は水が入ったポットとコップを一個持ってくる。そして、光二と水菜のコップに水を注ぎ、隣の机に水が入ったコップを置いた。
「義樹君、色々と悪いことしちゃったね。あと一時間だけだけど、ゆっくりしていって」
「ど、どうも……」
 少しずつ回復はしているようだが、まだ本調子ではない。義樹は這いずりながらも、やっと椅子に腰を下ろした。そして水をゆっくりと飲み干す。
 それを一切無視する形で、光二は英語のテキストを開いた。洋に教えてもらう問題のページをめくったところで、義樹がふと素朴な疑問を口にする。
「なあ、洋さん、どうして早く閉めるんだ? 何か特別な日でもあるのか?」
 何気なく聞いたことだが、洋の笑顔が消えた。
 だがそれも一瞬で、すぐに表情を戻す。
「ちょっと知り合いに会う用があって。今日しか都合が合わなくてね。まあその分、お盆休みは短めだから」
「そんなに会いたい人って、もしかして彼女?」
 また軽いのりで彼は人の感情の内部まで入っていく。適当に流していいですよ、そう言う前に洋の声によって遮られた。
「――違うよ。ただの――旧友に会うだけ。それ以上でも、それ以下でも――ない」
 一音一音間違いないように言葉を紡ぐ。その言い方がいつもと違っており、思わず洋の表情を見ようとちらっと見上げる。その目はいつになく真剣で、拳を握りしめ、心なしか震えているように見えた。
 そんな洋を見るのは初めてであった。いつも笑顔で人と接する彼が、どこか思い詰めたような表情をするなんて。
 質問をした義樹も少し困惑しているようだ。目の焦点が合わず、どこにやればいいか迷っている。
 だが少しして、洋は顔を和らげた。
「それよりも、あまり時間もないから、何か質問があるのなら、早めに言って欲しい」
「あ、はい、洋さん。……この和訳、上手く英訳できないんですけど」
「どれどれ……」
 穏やかな表情のまま、光二に示された問題文を読む。だが、その姿にどこか違和感を覚える。
 その考えを胸に秘めながら、光二や水菜は洋に気になっていた問題の解答への過程を聞いていた。その間、義樹を脇に置いておくのはもちろんである。
 これで洋に教えてもらうのは三回目だが、本当に分かりやすいと思う。だからこういう疑問が出るのも必然であった。
「洋さんはどうして喫茶店を経営しているんですか? その様子だと、勉強は好きだったんでしょう?」
「そうだね、好きだったけど、事情が重なったんだ。将来へ続く様々な出来事が」
 その言葉から洋のほろ苦い気持ちが垣間見えた。
「光二君は、将来どうなりたいの?」
「俺、ですか?」
「そうだよ。君だって、頑張って勉強しているよね」
「いや、俺は頑張っているほどではないですよ。……将来なんて、考えられないです。半年後、もっと言ってしまえば明日でさえ考えきれないのに」
 日々、迷いの連続だ。
 今、何をすればいいかなんて、わからない。どうして勉強をするのかと疑問に思ってしまう。それがとても悩ましい。理由が見つからない。
 ただ無我夢中にボールを追っかけていた日々とは違うのが、どことなく切なかった。
「今が楽しければいいじゃないか」
 光二の思考を遮るように、義樹が腕を伸ばしながら、一言投げる。
「今が?」
「そうだ。そんな色々考えても、もったいないだろう。楽しく生きる方向を見た方がいいって」
 人生そう単純じゃないって言いかけたが、正直言って義樹の言葉に惹かれたのも事実であった。
 この少年はいつも光二に対して、変わった風を吹き込ませる。それは大半が迷惑だが、時としてありがたいときもあった。
「今が楽しい――それも悪くないね、義樹君」
 ぽつりと呟く洋は薄らと笑っていた。


「今日の洋さん、変だったよな」
 午後三時過ぎ、太陽が照りつけるアスファルトの上を自転車で走らせる二人の少年が疑問を口にする。
「お前も気づいていたのか」
 光二はさも意外そうに相槌を打った。
「わかるさ。俺を馬鹿にしているのか?」
「いや、別に」
 思っていたことを軽く受け流した。
 自転車を走らせている途中で信号が赤になり、ブレーキをかけた。そして自動車が目の前を通り過ぎるのをぼんやりと眺める。
「何か特別な日なんだろう、今日は。それでいつもより気持ちが浮ついていたとか」
「そういうものなのかな……。まあいいや。とりあえず、明日は塾ないんだろう。喫茶店に行こうぜ、抜け駆けなしに」
「ああ、鈴原とも約束したからな」
 喫茶店を出た直後、躊躇いがちではあったが、水菜から誘ってきたのだ。その様子はどこか洋のことを心配しているようにも見える。
 光二は義樹に対して返事をすると、がらりと顔つきを変えた。
「そうと決まれば、今日は早く帰ってゲームでもするか!」
 信号が変わると、義樹は勢いよくペダルを漕ぎ始める。気が付くとすでに置いて行かれてしまった。
 周りを見ない義樹にはあっと深く息を吐く。
 義樹や水菜に言われなくても、明日は行くつもりであった。
 漠然とした予感というものが、脳裏をよぎっていたから――。
  

 


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