夏の太陽の下へ


 

第4話 角砂糖が溶けるまで (2)

 

   

 アイスティーとガムシロップは洋の前に、紅茶とフルーツタルト、そして四角い角砂糖がぎっしり詰まった瓶を夏美の前に置く。「ごゆっくり」と、一言伝えて、おじさんはのんびりとさっきいたカウンターへ歩いていった。
 洋は夏美の前に置かれた角砂糖に目をやる。
「角砂糖なんて、珍しいね」
「そうね、今は個装が主流だから。特にチェーン店は持ち運びもできるスティック状のものが多いから、あまり見ないでしょ。でも私はこっちの方も結構好きよ」
 蓋を開けて、角砂糖を一つつまみ出す。そして静かに音をたてながら、紅茶の中へと入れた。
 砂糖は徐々に分解され、固まりから個々の粒へと変わっていく。それをスプーンでかき混ぜることによって、さらに速度を増す。やがて、あっという間に砂糖は見えなくなってしまった。
「――ねえ、砂糖って完全には溶けきらないものなのよ」
 夏美は紅茶を一口含ませてから言葉を紡ぐ。
「溶けたように見えても、底の方に溜まっている。まるで完全には周りと協調なんてしないと行動しているようなものよね」
「けど、砂糖の性質的にそれは仕方ないこと。それに他のものだって、混ざらないものはたくさんあるだろう」
「その通り。そう、人と人との関係も、そして自分の中での考えた方も完全には混ざらないのよね」
 夏美はゆっくり味わうように紅茶を飲む。その優雅な描写は絵になるものがあった。それを見つつ、洋はストローでアイスティーを飲み始める。
「――私さ、自分の行動に自信が持てないときがあるんだ」
「夏美が……?」
 意外な言葉に、洋は目を丸くする。
「人にどう見られているか知らないけど、たぶん私、真っ直ぐに何かを追い求めているように見えるでしょ」
 洋は少し考えつつも、軽く首を縦に振った。それを見つつも、夏美は続ける。
「だけどいつもどこかで迷いが生じている。果たしてこれでいいのかって。確かにずっと橋造りや設計に憧れがあって、今の大学を目指そうと思っていた。でも、本当は違うんじゃないか。ただ昔の自分の想いを裏切らないために、時の流れに沿っているだけで、本心は別の所にあるんじゃないかって。――まるで意固地になって、最後まで溶けない砂糖の粒と同じみたい」
 苦笑をしつつも、夏美は胸の内を明かしてくれた。その何とも言えない複雑な表情が、洋の心の中に埋め込まれた。
 人は分岐に立たされ進んだ後は、何らかの後悔やどうしようともいえない迷いの道にさまようかもしれない。果たしてそれが正しい選択だったのか、本当の気持ちはどこか別の所にあるのではないか――など。
 普段は多少悩んだりするが、とりあえず進んでみようという考えに達するだろう。しかし、大学受験の勉強も徐々に追い打ちをかける精神的に不安定な頃は、ついその悩みによって立ち止ってしまうのかもしれない。
「――今は、必死にそれが正しいことだと思おうとしている。だって、私がずっと興味があったこと、それ以上のことはないと思ったから。――駄目だよね、こんな固い考えた方は。一度走らせたトロッコを止めることができないなんて」
 彼女の奥底の気持ちは洋も感じ取ることができた。意味合いは少し違うが、そのような悩みは体験したことはある。一心不乱に取り組んだ部活動や文化祭準備。やっている時は何も感じないが、ふとした空白の時間にはつい一呼吸吐いてしまう。
 おそらくどれがいいという、答えなんてあるわけない。それでも何らかの言葉が欲しいのも事実であった。
「何やら青春の悩みでもしているのかい?」
 店員のおじさんが、コーヒーを片手に近づいてきた。気がつけば残っていた客は店から出ており、店内は洋たちとおじさんだけになっている。
「青春の悩みって、どういうのをそういう風に言うのでしょうか」
「恋愛のこととか。だが、君たちにはそういう心配はなさそうだ。それじゃあ、進路のこととかかい?」
「まあ、そんな所です。よくわかりますね」
「ここで君たちと同じような悩みを持った人たちと会ったことがあるし、十代後半から二十代前半は将来について漠然と不安がある時期だから、何となくわかるさ」
 おじさんは隣の椅子に腰をかけて、コーヒーを一口飲んだ。そしてどこか遠い目を向けながら、言葉を漏らす。
「何かに一生懸命になることは、とても大切なことだと思う。それがその後の人生に生きるかどうかはわからないが。――お嬢さん、よかったらそのタルトを一口食べて、感想を聞かせてくれないかい?」
 突然話題に向けられたまだ手を付けていないタルトの存在を思いだす。夏美は首を傾げていたが、おじさんの瞳に促されて、慌ててフォークで一口サイズに切り、ひとかけらのフルーツと共に口の中に入れる。
 少しして、夏美の顔が晴れやかな様子に変化した。
「美味しい! タルトの程良い歯ごたえ、それにフルーツとの相性もすごく良い。ほら、洋も食べてみなよ」
 はつらつとした雰囲気に戻った夏美にフォークを差し出されて、若干訝しげに思いながらも受け取った。そしてタルトを少しだけ口に運んだ。
 口に含んだ瞬間、何かが弾ける想いがした。
 フルーツに影響を与えない程度のクリーム、そしてフルーツをより美味しくさせているタルト生地の存在。どれも無駄のないものであり、調和もしっかりしている。それらの生かし方が非常に上手く、結論を端的に言ってしまえば美味しかった。
「よかった、少しはいい表情に戻ったね」
 おじさんはそう言いながら、口元を緩ませた。夏美は洋からフォークを返してもらうと、引き続きタルトを食べ始める。
 それをよそに洋は顔が綻んでいるおじさんを見た。
「これは、独学なんですか?」
「違うよ。あるケーキ屋で何年か修行して、その時に得た知識をアレンジしたものだ。昔からケーキ作りや人々の笑顔を見るのが好きだった。サラリーマンになった後でもその想いは捨てきれなくて、勇気を振り絞って脱サラしたんだ」
 おじさんが話している表情はとても生き生きしていた。世間では厳しいと言われている転職。それをしたことに対して、身も心も乱れたはずだ。
「脱サラした当時は今の君たちや、若者たちと同じように不安でいっぱいだったさ。でも自分の信念だけは曲げないようにした。――自分が想ったことはきっと最後まで味方だから」
 コーヒーカップを机において、おじさんは洋と夏美を交互に見た。
「本当にこれでよかったのか、それをしている時はわかるはずがない。だけど、きっとその真っ直ぐな想いは周りからも評価される。だから、迷ったら走り抜く、というのが、私が今まで経験をし、人々と接して出した考えの一つなのだが、どうかな?」
 押しつけもせず、ただ素直に自分の考えを述べるおじさん。だからなのか、何の抵抗もせずに、彼の言葉が心の中に入ってきた。
 一つの考えではあるが、それを聞くことでどこか救われたような気分になる。
 夏美もすっきりした表情をしていた。紅茶は飲み干されたが、よく見れば、溶けきれずに底に溜まっていた砂糖が残っている。それはただ意地で、周りと協調せずに残っていたのではない。
 静かなる想いを秘めながら、自分の意志をしっかりと持っているということを、主張しているのかもしれなかった。


 * * *


 それからというもの、機会があれば二人はこの喫茶店に来て、勉強や話をするようになった。平日は遅すぎてやっていないため、土日の午後に訪れるのがもっぱらだ。
 やがて月日は去り、無事に大学受験が終わり、卒業式も迎えた。大学は違うが、それでもずっと交際を続けることを誓ったのだ。
 その後、入学して落ち着いてきた頃、洋はあの喫茶店でバイトをする事に決めた。バイト代は他の飲食店に比べると少ない。だが、ずっと通っていた喫茶店の経営に携わること、そして雰囲気を感じることができるのが、何よりの財産だった。
 サークルや勉強に時間を費やしている夏美も、時間のあるときには手伝うようにしている。小さな喫茶店に賑わいが見せ始めたときだった。


 そんな夏のある日、洋と夏美はデート時に、とあるケーキ屋さんへと入ったときのことだった。そこは有名なパティシエが経営している店で、いつも人で溢れ返っているのだが、偶然通りかかったときには比較的空いていたため、入ってみたのだ。
 その店に入ってまず目についたのは、色とりどりのケーキがケースの中に綺麗に入れられていること。どれも美しく、美味しそうで、魅力的だった。
 日の光がよく入る席に案内されて、二人は各に好みのものを注文する。少しして、その品と飲み物が出てきた。
 洋には苺のロール、そして夏美にはフルーツが溢れそうなくらいにふんだんに乗ったタルトが目の前に置かれた。
「夏美はタルトが本当に好きだよね」
 嬉しそうにタルトを口に運んだ夏美に対して、思ったことをぽろりと言う。それに彼女は飲み込んでから返した。
「ケーキやデザートなら、何でも好きよ。でもタルトは特に好きってとこ。特にフルーツどっさりのものとか、ついつい注文しちゃう。――知っているわよ、洋がタルト作りを始めたって」
 思わぬ言葉にドキッとしてしまう。その反応を楽しむかのように、夏美はにこにこしていた。
「すぐに顔に出るんだから。本当に隠したいのなら、もっと徹底的に隠しなさいよ。試作品はいつでも食べてあげるからね」
 茶目っ気ぶりに返すと、再び幸せそうな顔をしながら食べ始めた。
 改めて感情がすぐ顔に出てしまう、損な性格に落胆してしまいそうだ。夏の終わりには夏美の誕生日がある。そのためにと思って、喫茶店のおじさんに無理を言って教えてもらっているのだ。だが次第にその目的以上のために作っている洋がいた。
 ケーキを作ることが楽しい。それを誰かに食べてもらい、嬉しそうな顔をしてもらえると思うと、さらに楽しくなってくる。こんな風に何かに夢中になるのは初めてだったのかもしれない。
 今日も偶然にこの店に訪れたことにしていたが、本当は狙ってきたことであった。話題のパティシエが作ったケーキ。それがどんなものなのかと興味があった。
 興味がそのまま将来に繋がるわけではない。だが、それでも気になり始めていた。それと同時に、身に入らなかったフランス語の授業もしっかり聞き始めていたのだ。
  

 


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