夏の太陽の下へ


 

第2話 搾りたてのジュースと共に (3)

 

   

 喫茶店の中に入ってきたのは、くたびれたスーツを着た少し頬がこけている青年。髪はぼさぼさで、背筋は曲がり、全体的に疲れきっている印象を受け、せっかくの二枚目が台無しである。営業途中の青年だろうか、手持ちの黒い鞄から何かのパンフレットが目に入った。
「いらっしゃいませ、お一人様ですね。こちらのお席へのどうぞ」
 洋は颯爽と近寄り、入り口近くだがなるべく奥まった二人席にその青年を案内した。光二たちとは真逆の場所。そこは少しだけ孤立したような所で、一人で何かを没頭したいときにはお勧めの場所であった。
 青年はぼんやりとメニューを眺めている。そして水を持って、注文を取りに来た洋にただぼそっと「コーヒー」とだけ言う。洋は軽く返事をして、彼の空間を壊さないように引き下がった。
 義樹がその青年に対して意識を向けているのに気づき、声をひそめて慌てて中断させる。
「義樹、そんなにじろじろ見たら失礼だろう」
 だが義樹はきょとんとした顔をする。
「え? そんなに見ていたか?」
「かなりな。……さて、リフレッシュも済んだところで、勉強の続きをしようか、鈴原、池中」
 口直しとして、水を飲んでいる水菜は視線が合うと頷く。だが恵美香はただ真っ直ぐ、あの青年の方を見ていた。
「池中……?」
「な、何かしら、高山君」
 再び呼ぶと、すぐにはっとして振り向き、聞き返す。どれだけ彼女は彼に対して集中していたのだろうか。そんなに珍しい人だろうかとも思ってしまう。
 今の時代、不景気というのはテレビでも新聞でも嫌でも聞かされている。そんな中、営業で確約が取れず、足が棒になるまで歩き回っている話もよく聞く話だ。
 もしかしたらこの少女は雰囲気からしてお嬢様なように、どこか世間離れしているのかもしれないと、何となく思った。
 四人の意識を再び英語の問題に戻す。水菜は洋に質問をするための問題を探し、光二は質問したところを自分なりにまとめ始めた。恵美香も光二の長文プリントをさらっと読んでいるようだ。
 だが義樹はまたつまらなそうに、ぼんやりと三人の様子を眺めている。ある問題文を見て、ふと口を開けた。
「『私は非常に上手なサッカー選手だ』って、自分で上手いって言うかよ」
「これはただの問題だから、そんなに突っ込むなよ。もしかしたら、私じゃなくて彼にしたかったのかもしれないし」
「どうせ適当に考えた問題だろ。ただ思っただけさ」
 水をごくごく飲みながら、ふうっと息を吐く。水菜はペンを動かすのを止めて、そんな義樹を見た。
「さっき、恵美香との会話から聞こえたんだけど、二人ともサッカー部だったんだって?」
「そうだよ。俺はフォワードで、光二はミッドフィルダー。そういえば二人は何の部活に入っているんだ?」
「私たちはテニス部。まあ、もう引退した身だけどね。今となっては過去の話。顧問の先生が適当だったから、成績っていう成績は出せなかったけど、それなりに楽しかった」
「上位の選手を見て、何か思わなかったのか?」
 珍しく義樹が話題に噛みついている、混じりけのない目で。水菜も若干嫌っていた彼だが、何かを感じ取ったのか真面目に受け答える。
「まあ、上手いな……って思った。同じ中学生のはずなのに、どうしてこんなにも差が出るのかって」
「そうだよな、やっぱりそう思うよな。別にクラブチームとか入っているわけでもないのに、どうしてこんなに勝ち負けがはっきりするのかって……」
 拳をぎゅっと握りしめ何かに耐えているような義樹。それを見て、ほんの一、二週間前のことを思い出す。
 義樹と光二の中学のサッカー部は夏の県予選二回戦で惜しくも敗れてしまった。戦力はそれなりに揃っており、もう少し勝ち進むと算段していたが、ほんの少しの隙にゴールを入れられてしまい、それが決勝点となってしまったのだ。
 三年生にとっては引退試合。あまりの悔しさに涙を流す部員もいた。だが一方で、部長であった義樹はピッチに立ち、夕日をずっと見つめていた。泣くのでも喚くのでもなく、ただ溢れでる想いを、夕日の中に無理矢理とけ込ませようとしているようにも感じられた。
 あれからあっと言う間に日は過ぎている。一日経つにつれて、光二の中では一つの出来事であったその試合は、確実に過去へと移行していた。
 それよりも、漠然とした不安の方が光二の心の中を覆っている。この先の将来という、避けても避けられない出来事が――。
 そんな思考を中断させるように、コーヒーカップが音を立てて、皿に置かれる音が店内に響く。激しい音に思わず光二でさえ、視線をあの青年の方に向けていた。
 青年は左手で額を押さえながら、深く溜息を吐いている。時折、小刻みに首を横に振っていた。何か嫌なことを思い出したのかもしれない。激しく己に叱咤している。
 そんな中、洋は温かなコーヒーカップをお盆に乗せて、その青年に近づく。青年は洋の気配に気づき、胡乱下に視線を上げた。
「コーヒーのお代わりがありますが、いかがですか?」
「……注文した覚えはない」
「サービスです。お気になさらずに」
 そっと空になったコーヒーカップを引き下げ、代わりに湯気が立っているカップを置く。青年はその様子をただ眺めていたが、洋と視線が合うと、目を大きく見開いた。
「お、お前……!」
「何でしょうか。顔に何か付いていますか?」
 青年は上から下まで洋を見たが、落胆したように軽く首を横に振った。
「いや……気のせいだ。何でもない。……この喫茶店はあなたが始めたのですか?」
「いえ、違います。知り合いがここを経営している際、縁あって出会い、事情が重なって引き継いでいます」
「そうか。その歳なのにコーヒーもしっかり淹れられていて、美味しいですよ」
「お褒めの言葉、ありがとうございます。ではごゆっくりと」
 洋は微笑み、軽く頭を下げると、優雅にその青年の前から去っていった。青年は再びメニューの方に視線を向けると、何やら手帳を取り出して、ペンを走らせる。そしてそれが終わるとコーヒーを一口喉に通した。
 洋の言動などの優しさや気の使い方が、たったそれだけの出来事でさえも伝わってくる。女性から見たら、非常に魅力的なのだろうな、と漠然と光二は思った。
 しばらくして青年はコーヒーを飲み終わると、支払いを済ませる。そして入ってきたよりも背筋を真っ直ぐにして出ていった。何だか少しだけ彼の意識に変化が生じたようだ。
 気が付くと、また鳩時計が時間を知らせている。そして洋も外から何かを入れ込んでいる。水菜は鳩時計を見ると、あっと声を漏らした。そしてまだペンを握ったままの光二に呼びかけてくる。
「もう午後六時、閉店の時間よ」
「そんな時間? 早いな、もう三時間も経ったのか」
「そうね、質問の量がいつもの倍以上だもの。時間は短く感じるよ。さて、もう帰りましょうか。たまの日曜の夜くらい、早く帰って夕食にした方がいいでしょう」
 髪を揺らしながら、水菜は立ち上がる。恵美香もすでに準備は終えていた。そして彼女は呆けている義樹に笑みを浮かべた。
「義樹君もさあ、帰りましょう」
「え、もう、帰っちゃうの!」
「閉店時間なのよ、しょうがないわ」
「そんな、洋さん、少しくらい……駄目?」
 立て掛けの看板を取り込んだ洋にすがるような声を出す。彼は特に顔色など変えずに返す。
「別に僕は構わないよ。ディナーはやっていないから、この時間に閉めるだけだしね」
「本当? それなら恵美香ちゃん、もう少しだけ――」
「義樹君」
 いつものおっとりした声ではなくはっきりとした口調をする。そして義樹の右手を両手で握りしめた。
「洋さんだって、この後に色々と用があるからこの時間に閉めるのよ。……ね?」
「う、うん……、そ、そうだね。帰ろうか、光二」
 義樹は若干顔をひきつらせながら、たどたどしく返事をした。一方、恵美香は至って笑顔である。不思議に思いつつも、全てのテキストとプリントを鞄の中に入れた。
「ごめんね、何だか追い出したようで……」
「いいんですよ、別に。気にしないでください。こちらこそ、こんなに長々とすみません。そしてありがとうございます」
 謝罪より、感謝。それを声に出すことで、洋はまた嬉しそうに笑ってくれた。
 四人は支払いをしてドアを開けると、少しねっとりとした風が肌にまとわりついてくる。もうすぐ夜になろうという時間、夕焼けはもうほとんど見えなくなっていた。
「またいつでもおいで」
 義樹と光二、そして水菜が自転車に手を添える。
「……来週も一緒に勉強してもいいか?」
 光二はちらりと水菜を見る。彼女は首を縦に振った。
「いいわよ。来週も勉強しましょう。あのさ、よかったら理科も教えてくれない?」
「俺が?」
 光二は指を自分に向けて、驚いた顔をした。
「ええ。だって、あなた塾で一番理科できるじゃない。いつも模試で一位だし」
「ああ、そうだったかもしれないな。……別にいいが、俺でいいのか? 教えるとか得意じゃないけど?」
 光二にとって理科は得意というよりも、好きな教科だ。ささいなことでも授業中に実験をしてくれた中学校の理科の教師のおかげだろう。とは言っても、好きであるからといって、教えることに適しているとは言えない。
 しかし水菜はくすっと笑いながら、口を開いた。
「いいのよ、理科が好きなあなただからいいの」
 一瞬、その言い方にどきっとした。何やら意味深に捉えられる言い方だが、言った本人はすでに何事もなかったかのように洋に挨拶をしている。その横顔を見て、光二の記憶の中でまた何かが引っかかる。頭の中がもやもやとした、漠然としたところが。
 義樹は最後まで名残惜しそうだったが、恵美香たちが先に帰路に着くのを見て、渋々と喫茶店から離れた。彼女たちは光二たちと真逆の方向に家があるらしく、すぐに別れることとなる。来週も同じ時間でと約束して、背をお互いに向けた。そして水菜は自転車を押しながら、徒歩の恵美香に合わせ、光二たちは自転車に乗り始めたのだ。
 見る見るうちに二人の姿や喫茶店は小さくなる。隣では溜息を吐きつつも、嬉しそうな顔の義樹が意気揚々と自転車を走らせていた。
「恵美香ちゃん、色々と可愛いねえ!」
「そうだな。充実した半日だった」
「勉強とかなしで行きたいんだけど……」
「そんな暇はない。行くなら一人で行け。お前、学校からの宿題、まだ手を付けていないだろ。早くやったほうがいい。あれは一週間かけても終わる気がしない」
「そんなにあるのかよ! それなら光二のノートを――」
「絶対に見せない」
 言う前にそれを防ぐ。義樹は変なところで頭が回転するから、無駄口は開けない。
 やがて適度なところで義樹と別れ、家に向けて走らせる。楽しかったという気持ちと、また塾と家との往復が始まると思うと気分が重い。
 そして明日から一週間は一日缶詰講習が始まる。気分を萎えるなと言われても、無理な話だった。
  

 


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