夏の太陽の下へ


 

第1話 まずは水を一杯どうぞ (1)

 

   

 さあ、午後のティータイムの時間ですよ。
 今日は前から欲しかった茶葉を手に入れることができたから、それを使いましょう。私も大好きな茶葉、味はもちろんのこと、とてもいい香りがするのよ。
 今、新鮮な水を沸騰させているからもう少し待っていて。沸かし過ぎないように注意しましょうね。
 あ、そうそう、紅茶と言っても、あなたは何が飲みたい?
 このまま紅茶を飲む? それとも砂糖やミルクでも入れる?
 それとも氷を入れて、アイスティーでもいいと思う。ほら外はとても暑いんだから、きっと美味しいわよ。
 人それぞれ好みは違うんだから、自分が好きな味を言ってちょうだい。


 そう、あなたが本当に望んでいる味を――――。


 * * *


「どうして……、どうして、こんなに暑いんだ!」
「そんなに暑いって連呼するな。余計に暑くなってくるだろ」
「じゃあ、寒い、寒いって言えばいいのか?」
「……それも変だから、とりあえず黙っていろ」
 蝉が喧しく鳴いている昼下がりの時間帯、七月の終わりの日曜日に、まだあどけなさが残る二人の少年が、大量の汗をかきながら自転車を押して歩いていた。よく見ると、タイヤは二台ともパンクしている。前に備え付けられているカゴからは透明なプールバックが乱雑に投げ込まれており、苛立ちが目に見えてわかるようだ。
 ふと僅かにぬるい風が吹き、少年たちの生乾きの髪が微かに揺れる。
 始めに悪態を吐いた半袖のパーカーを着ている癖毛の少年は、その風が吹いた方向に視線を向けると、急に立ち止まった。そして次の瞬間ハンドルから手を放し、一人で駆けだし始めたのだ。自転車は音をたててアスファルトに叩きつけられる。
「おい、義樹!」
 柔らかな髪で、薄手のベストを着ている少年が何事かと呼び止める。だが義樹と呼ばれた少年は、全速力で走っていく。
「義樹、どこ行く気だ!」
 何を言っても聞く耳を持たない松原義樹の後を慌てて追い始める。しかし彼はすぐに足を止めた。
 不思議に思いながら、彼の視線の先を辿る。そこには――一台の自動販売機があったのだ。
「よっしゃ! 飲み物ゲットだぜ!」
 義樹はポケットから小銭を何枚か出して、硬貨投入口に入れ込む。そして勢いよくボタンを押したのだ。ようやく自動販売機まで追いついた少年はその様子を見て、「あっ」と声を漏らした。
「何だ、光二、欲しくてもやらないぞ」
「義樹……、よく見たか、その自販機に貼ってある注意書き」
「はあ? 自販機に注意書きなんかあるわけ――」
 義樹は高山光二に促されて、ゆっくりと視線を左へ移し、そこに赤い文字で印刷されている紙を見て、固まった。
『申し訳ありませんが、現在この自動販売機は壊れております。お金を投入はできますが、中身は出てきませんのでお気をつけてください』
 一瞬、空気が凍り付く。
 だがすぐに砕け散った。
「うわーー! 俺の金返せーー!」
 突然絶叫しながら、義樹は自動販売機を叩き始めたのだ。どこか一歩引いて見ていた光二も自転車を停めて、さすがに止めに入る。
 背中から両手で取り押さえようとしたが、それでも義樹は叩くのをやめようとはしない。
「お願いだから、落ち着け、義樹!」
「落ち着けられるか! 俺の百五十円返せ!」
「百五十円くらいでぐたぐたと言うな! というか、叩く前にすることがあるだろう!」
「叩く以外にすることなんてない!」
「もうわかったから、本当に少し黙っていろ!」
 そう言うと、光二は義樹を力ずくで横へと投げ飛ばす。義樹が呆気にとられている間に地面へと打ちつけた。そして打った背中をさするのを横目で見つつも、涼しい顔をしながら硬貨返却口を回す。すると硬貨が何かに向かって落ちる小気味いい音が鳴り響いた。
「……へ?」
 口をあんぐりと開ける義樹。それに対して、肩をすくませながら、光二は取り返した小銭を彼へと渡した。
「叩く前にすることがあっただろう。お願いだから、こんな恥ずかしいこと本当にもう二度としないでくれ」
「ああ、気をつけるよ。サンキュー、金を取り戻してくれて」
「……その言葉、いつも聞いているが、一応受け取っておこう」
 光二はやれやれと自転車に寄りかかりながら、義樹が道に倒した自転車をおこすのを眺めていた。そして彼がゆっくりと押し始めると、横に並びながら再び歩き始める。
「なあ、とりあえず喉渇いたんだけど。けど金はなるべくなら使いたくないんだ」
「俺に言っても何も出ない。大人しく家に帰ろう。まったく誰のせいでこんな目にあったんだ。義樹、この代償は高く――」
 口を開いている途中で、再び隣の車輪が回る音が止まった。
 よく見れば義樹が口を微かに開けながら、ある建物を見て立ち止まっている。少し戻って、その建物を見てみた。
 住宅街の一角にある建物で、流し目に見ればただの家だと思うだろう。だが、よく見ればこぢんまりとしつつも、どこか落ち着いた上品が漂ってくる、焦げ茶色の木造一階建ての店。
 扉の前にある看板に目を落とすと、そこには喫茶店 ソレイユ・デ・レテ″と書かれていた。
「喫茶店? こんなところにそんなものがあったのか」
 住宅街の真っただ中、余所から来た人にはわかりにくい場所だ。
「……なあ、光二君」
 その呼び方に一瞬悪寒が走った。そしてゆっくりと義樹を見ると、そこには満面の笑みを浮かべている彼がいた。顔を引きつらせながら受け答えをする。
「何だい、義樹。……あそこに見える大通りまで行けば、きっとコンビニくらいはある」
「あそこまで何百メートルあるんだ? それにコンビニがある保証なんてあるのか?」
「悪いが俺は時間が無いんだ。まだ塾の宿題が終わっていないし、次の中三模試では点数を――」
「宿題が終わったら、息抜きに一緒にプールに行くって言っただろう。なああそこで――、水飲ませてもらおうよ! そうだ、それが一番いい!」
「断る! 水を飲むだけに喫茶店に入るなんて、そんな恥ずかしいことできるか!」
「恥ずかしくないよ。ただ水を――」
「いいか義樹。もう少し状況を整理してから言え。まず今は午後のティータイムの時間帯。それなりに人が入っているだろう。次にここは住宅街の中にある喫茶店。おそらく客のほとんどがこの辺の人。ここら辺は俺たちが使っているプールの通り道だから、再び遭遇する確率が高い。そんな中で喫茶店に入って、『水だけ飲みに来た可哀想な男子中学生』って憐れむような目でこれから見られたら……! そんなリスクを背負ってまで俺は――、って、人の話聞け!」
 光二の叫びも虚しく、義樹は意気揚々と扉を引いていた。中から、少しひんやりとした冷気が漏れてくる。その誘惑的な涼しさは中に入らないと決めていた光二の考えを鈍らせた。
 自宅から自転車で二十分程走らせたところにある市営プールに行っていた二人だったが、帰りの自転車を走らせている途中で、空気が抜けてしまったのだ。つまりパンク。行く時は何も変わったところはなかったから、誰かがタイヤに針を刺したという、何とも幼稚な被害にあったらしい。そこでも義樹が暴走したのは言うまでもなかった。
 そして三十分近く炎天下の中を歩き続けたため、体力は大幅に減少。時計を何度も見たが、一向に進む気配はない。本当ならコンビニでも通り過ぎたらそこで涼もうかとも考えたが、一分でも早く帰ろうと光二が提案してしまったがために、何もない住宅街をひたすら歩いていたのだ。そのため冷房の室内は非常に魅力的だった。
 様々な考えが脳内を駆け巡る。その中には財布の残金を確かめることも。
 そして義樹が勢いよく扉を開けて、カランカランとお客を出迎えるかのような音が鳴り響いた頃には、肩をがっくりと項垂れつつもその背中にしっかりと着いていった。


 まず光二が扉を開いて感じたことは、地獄から天国へと駆け上るようなほっとするような涼しさ。照りつける太陽の下から逃れたことも、嬉しかった。
 よく見れば、前にいた少年はいつも以上にへらへらと顔を緩ましており、躊躇い無く中へと踏み入れている。それと同時に、落ち着いたテノールの声が耳に入ってきた。
「いらっしゃいませ。ソレイユ・デ・レテ、へようこそ」
 顔を前に向けると、目の前にはすらりとした身長の眼鏡をかけている青年が愛想良く笑みを浮かべていた。長袖のワイシャツを腕までめくりつつ、黒く長いエプロンを掛け、その間から色を抑えた赤色のネクタイが見える。そして長い黒髪を脇に結んでいた。
「お客様は二人でよろしいですか?」
 どこか柔らかな雰囲気を漂わせる青年が話しかけて来る。一方、前にいた義樹は何も反応せずに立ちすくんでいた。
「二人でいいのかな、君たち?」
 義樹からは何も言おうとはしていないのか。肝心な時にまったく何もしないなんて、と思いつつ、代わりに応えた。
「あ、二人です。……おい義樹、立ち止っているなよ」
 しかし呼びかけても反応はなく、呆けている。その様子に対して心の中で嘆息した。
「すみません、ちょっと太陽に当たりすぎて、頭が疲れたみたいです」
「それは大変だったようだね。ゆっくりと休んでいくといいよ。では、席にご案内します」
 光二は義樹を引きずりながら席へと足を向ける。
 店内は全体的に落ち着いた雰囲気が漂っていた。木の温もりが感じられる、柔らかい感じの椅子や机、所々にこしらえているアンティークもの。そして心地よいクラシックの音楽が静かに店内を流れている。
 ほとんど満席に近い店内で、少し中に入った通路側の四人席へと案内された。
 お水をお持ちしますと言って、店員が去っていく。席に着くと、まずは荷物を置き、そして汗でべた付いた時計をテーブルの端の方に置いた。
 だが義樹は荷物を下ろすでもなく、店員の方に視線を向けている。まだ変な様子の義樹を意図的にじろじろと見たが、反応はなし。どうやら彼自身の世界に浸っているようだ。
 やがて戻ってきた店員がメニューと冷たい水が入ったグラスを差し出した瞬間に、光二は一瞬で顔を引きつらせた。義樹がその手を離すまいと両手で店員の右手を握りしめたのだ。予想外のことだったのか、店員は驚くのを通り越して、きょとんとしている。
 すぐにやめさせなくては――そう思った矢先、再びカランとドアベルが鳴るのが聞こえてきた。義樹が不愉快な顔をしつつも気を取られた所で、店員は手をあっさりと払いのけて、入ってきた客を出迎える。
「いらっしゃいませ。……あ、恵美香ちゃんに水菜ちゃん。こんにちは」
 少女が二人、店内へと足を踏み入れてきた。
「こんにちは、洋さん。席、空いていますか?」
 可愛らしい声を発し、お淑やかそうな少女。目はくるりんとして、柔らかにウェーブがかかった髪を肩の後ろまでおろし、ふわふわしたスカートを可愛らしく着こなしている。そして薄いカーディガンを羽織っていた。
 その彼女が入ってきた時から、義樹から発せられる気配は明らかに何かが変わっていた。光二は奇異な視線を送り続けたがまったく気づこうともしない。ただ入り口で洋と呼ばれた店員と話している少女に今度は見入っているようだ。
「義樹、いい加減に妄想の世界から元の世界へ――」
「か、可愛すぎる。――惚れた」
「はい?」
 光二の突っ込みなどまったく意に介さず、ただ義樹は彼女を見つめていた。その彼女と洋の会話に耳を澄ましている。
「今日はもう満杯なんですね」
 義樹が惚れたと言った少女――池中恵美香は残念そうに肩をすくめる。
「ごめんね。少し今日は人の入りが多くて」
「いつもより遅く来てしまった私たちも悪いですので。どうする、水菜?」
 恵美香は後ろにいるポニーテールの髪型をしたもう一人の少女――鈴原水菜に話しかけた。
「ざっと店内見た感じだと、すぐ空きそうにはなさそう。恵美香、出直す? 別に今日じゃなくてもいいし」
「そうね。図書館で他の教科でも――」
 その言葉に割り込むように、義樹はすっと彼女たちの元へと歩み寄った。光二が止める時間すら与えてくれない。不審そうな目で見る水菜がいる一方、不思議そうに見る恵美香。
 そんな中、突然義樹は左膝を付きながら、右手を差し出した。そして彼としてはとびきりの笑顔で声を出したのだ。
「お嬢さん方、一緒にお茶でもどうですか?」
 店内の時が一瞬止まった。洋でさえ、笑顔のまま微動だにしなかった。
 だがその沈黙は速攻で破ることになる。
「初対面の女子に何やっているんだ、このバカ!」
 周りなど気にしない大声を発し、義樹の後頭部にプールバックが炸裂する。彼は前のりになりつつも、痛さを堪えるために歯を噛みしめて、後ろを睨みつけた。だがそこには世にも恐ろしい形相をした光二が、腕を組みながら仁王立ちしている。
「お前な、人さまに突然絡むとはいったいどういうご用件だ?」
「か、絡んだとは、人聞きのわ、悪い、い、言い方だな」
 何度も噛みながらも、精一杯受け答えをする。しかし、光二にはまったく通用しなかった。
「お前といたら、俺の人柄まで疑われるだろう! 俺の身にもなれ!」
「な、何が悪いんだよ。別に……」
「少しは黙っていろ! もう帰る」
「え……」
 義樹の表情が今までと一転した。酷く真面目そうに、困った顔をする。光二は大股でさっきまで座っていた席へと引き返し、荷物を持って、再び入り口へと戻ってきた。そして洋へと頭を下げる。
「お騒がせしました。彼女たちに席を俺たちがいた席にでも案内してください」
「あ、でも……」
 慌てて止めようとしたらしいが、それも聞かずに扉に近づく。
「ごめんなさい、私たちが来たばかりに」
 恵美香が申し訳なさそうに言葉を濁した。光二は努めて笑顔で返す。
「いや、俺たちもたった今、ふらりと寄っただけです。特にこれといって用事があるわけでもないし。そちらの方がここの喫茶店に用があるんでしょう?」
「え、ええ」
「なら気にしないで。あと、このバカのことはすぐに忘れてくれ」
 床に座り込んでいる義樹を指し、まだ動きそうになさそうだった彼のパーカーのフードを掴みながら、ずるずると引きずる。
 そして出入り口に近づいたところで、今度は水菜が近寄ってきた。
「……ありがとう。大変ね、そんな人と一緒にいて」
「まあこいつと一緒にいて飽きはしないな」
 光二が苦笑いをしながら水菜を真正面から見た。お淑やかな恵美香とは対称的に、はつらつとした雰囲気がする。
 だがその顔を見た時、何かが光二の心にひっかかった。数瞬立ち止ったが、すぐに心の中で思考を遮断し、視線を逸らして出入り口の前に行く。
 そして最後に洋に対して、深々と頭を下げながら、再び炎天下の中へと出て行った。


 喫茶店から出た光二は、義樹に彼自身の自転車を押させながら途中まで一緒に歩いていた。だが、間もなくして適当な所で分かれた。いつもはもう少し先まで一緒に帰っていたが、どこか居たたまれない視線を向けられて、溜まらず逃げ出したのだ。
 照りつける太陽が熱い。暑さのピークは過ぎた時間帯だが、それでも夏の暑さは堪える。早く家に帰って、涼もうと思い、汗で濡れている手でハンドルをきつく握りしめ、一気に駆け足気味に押し始めた。
 喫茶店から出てから二十分ほどしてようやく家の前に辿り着いた。自転車置き場に停めて、暑さから逃れるように急いで中へと入っていった。
 帰るなり、すぐにシャワーを浴び、部屋に入ると冷房をつけて優雅に涼み始める。
「はあ、生き返る。さっきまでの暑さが嘘のようだ……」
 部屋のベッドを転がりながら、暑くないという素晴らしさについて身を持って実感していた。
「それにしても義樹のやつ、一目惚れしていたな。確かにあの子は可愛かったけど、あんなことしちゃ、どん引きされる。まったく何やっているんだか」
 時に非常識な行動に出る友人に対しては、溜息を吐くしかない。
 しばらく横になっていると、次第に睡魔が襲ってくる。それに逆らうこともせず、眠りに落ちてしまった。
  

 


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