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旅立ちを導く色紙 

 

 

  始まりは今日のような天気だったと思う。
 快晴とは言えず、少しだけ雲がかかっている、一般的に言えば晴れという天気。
 けれどもまったく同じとは言えない。なぜなら雲は流れ、量だって、その時々で変わってくるからだ。
 同じ日などなかった。
 私が過ぎしてきた毎日でも同じ日などなかった。
 そのような日々を過ごし、私はまた新たな区切りを迎えようとしていた。
 終わりから始まる、そんな日が――。


 * * *


 その日は朝から早く、まだ太陽が昇っていない時間に起き、眠さを堪えながら顔を洗う。ある程度支度ができてから、リビングに向かうと、簡単な朝食ができていた。すでにお母さんは食べ始めている。
「晴香、早く食べなさい。あと二十分後に出るわよ」
「はいはい」
 時計をちらりと見ながら、ご飯と目玉焼きを黙々と食べ始める。特別な日でない限り、絶対に起きない時間帯だ。おそらく今日はゆっくり昼食を食べている時間はないだろう。もしかしたら最後の最後で、大学四年間の中で、一番ハードになる日かもしれない。
 ご飯を食べ終えると、お母さんに急かされながら、近くの美容院へと向かう。終わった後はお母さんの手によって、袴を着付けてもらう予定だ。


 大学生の最後で最大の行事、卒業式を数時間後に控えた私は、早朝から慌ただしい時間を過ごしている。大学から遠く離れている家に住んでいるため、その分数時間支度も早くしなければならない。
 美容院で、綺麗に化粧をし、長い黒髪をアップにしてもらう。そうは言っても、成人式ほどに華やかではなく、知的な印象を漂わせられるように、若干おとなしめにしなようだ。
 着々と変わっていく姿に、私も思わず鏡を見ながら微笑んでしまう。
 最後に黄色い髪飾りをささやかに付けて美容を終えると、急いで家に戻ってお母さんに着付けをしてもらう。その頃にはさすがに太陽は出始めていた。
 成人式の時に買った、晴れやかな黄色を基調とした振り袖着付けてもらい、濃い緑色の袴を着れば、高校生だと見られがちな私も、どうにか大学生には見えるだろう。
 鏡を通して、袴姿の自分自身を見ると、いよいよ卒業なんだなと、実感する。
 短かったなあ……と感傷に浸るまもなく、時間が押しているということで、急いで家を出た。
 太陽はまだ昇り途中ではあるが、きっといい天気になるはずだ。二日前まで雨だったのが嘘のようである。
 そういえば、入学式もそんな状態で、程よい春の陽気であり、いいスタートダッシュを切ったのだと思い出していた。


 * * *


 卒業式は大学にある会館で行われる。公共の立派なホールより規模は小さいが、卒業生はどうにか入れられる広さだ。
 入り口で所属しているバトミントン部の友達、若宮咲(わかみやさき)を始めとして、多くの友人と会いながら、受付を済まして中に入った。咲は赤色の振り袖に、紺色の袴を着ている。私より十センチくらい高いため、よりかっこよく見える。
「とうとう私たちも卒業か。早かったね」
 椅子に座ると、ざわめきの中で咲が何となく言葉を漏らす。視線の咲には壇上の上にある、“卒業式”という文字。
「そうだね……。ねえ、咲の四年間と言えば?」
「うーん、まあ二年生までは部活だよね。あの頃はバトミントンに燃えていたよ」
「確かに。毎日が強制じゃないのに、ほとんど毎日練習していたでしょう」
「うん。今、思えば、本当によくやったと思う。まあその後は、あまりできなかったのが心残りかな。実験が忙しい研究室に入ったから、しょうがないんだけど……」
 前を向いていた咲の視線が私の方に向く。
「そういう晴香は?」
 もはや考えるなど愚問の内容である。
「部活に決まっているでしょう。卒アルの“私の四年間”を表す写真で、ラケットを写したくらいに」
「――本当にすごいよ、晴香は。最後まで途切れず走り続けた、その姿勢。本当に見習いたい」
 じっと見つめてくる視線が気恥ずかしい。視線をかわして、淡々と返す。
「忙しい研究室じゃなかったから、最後まで続けられたわけ」
「そうだとしても、四年の秋まできっちり部活に出続ける人なんてそうそういなかった。すごいよ」
 そんなことを言われても、何も出てこないんだけどな。
 適当にその話を終わりにすると、徐々に明かりが落とされる。壇上の脇にいる先生の口元にはマイクが。
 静かな開会宣言とともに、卒業式は始まった。


 ただ聞いているだけの式ではあったが、学長からの言葉は有り難いものであった。
 中学や高校など、多少は心に響くが、いまいち理解しにくいところもある。だが大学という大人の手前まで来ると、自分でさらに上手く咀嚼して、心の中に埋め込ませることができているため理解がしやすい。
 これから社会に出る者、さらに研究を極める者など、すべての人にエールを送ってくれるような、温かなお言葉であった。
 その後も祝辞を承り、学部生で代表して、何人かが卒業証書を授与されるなど、お約束通りの内容が続く。
 最後は校歌を歌って閉式となる。校歌など入学式以来歌っていない人も多数いるようで、卒業式案内の裏に載っている楽譜を見ている人が多い。だが私は部活の学生リーグ戦などで何度も歌っているため、身に染みていた。
 歌うにはあまり適していない服装であるが、極力声を、そして四年間の想いを込めて校歌を斉唱した。


 式が終わった後は時間との戦いだ。
 三十分後に学科ごとの授与式が始まる。会館とそれらの式場までは十分ほど歩く。普通に歩けば、間に合うが……。
 会館から出ると、四年前を思い出させるような光景が広がっていた。目の前は人の山、山。段差があるはずだが、それが上手く見えない。
 入学式後の新入生歓迎祭も同様に人で溢れていた。違うところと言えば、ここにいる学生は自分より同じか下の年代で、勧誘ではなく、全力で祝おうと意気込んでいる雰囲気という点か。
「水泳部はここですよ、先輩! どこですか!?」
 海パン、ゴーグルという寒すぎる格好の少年が目の前を横切る。
 大きく旗を振りかざしている応援団の人や、人形劇サークルが人形を目立つように持ち上げている人など、様々な人が目に入る。
「毎年あっち側で見ているけど、こっち側から見ると、これまた面白いね」
 咲が楽しそうにその様子を眺めている。確かに目立った格好をしてもらった方が、卒業生としても見つけやすいが、ハメを外しすぎではないだろうか。
「あ、杉森さん、若宮さん!」
 呆然と立ち止まっていると、聞き覚えのある後輩の声が耳に入ってくる。彼は部内でも笑いをとる担当であり、面白い少年。そんな彼の方へ振り返り――
「そんな恥ずかしい格好、やめなさい!」
 間髪入れずに突っ込んでしまった。一昔前のお笑いを思い出させるような、密着度が高いビニール性の黒い服を着ている。両腕や(もも)は丸だし。その上、似合わなすぎるサングラス。
 お前はいったい誰だ!
「そんなこと言わないでください。さあ、行きますよ」
「わざわざそんな格好で呼ばなくても、行くわ!」
 かなり嫌そうな顔をしながら、一定の距離を置いて、後輩の後を私と咲は着いていく。咲は彼の様子にあまり害してないようで、すたすたと進んでいた。
 やがて見覚えのある顔ぶれが目に入ると、そこには四年間一途に頑張り続けたバトミントン部の一員である、部員たちが待っていた。
 体育会系であるため、ジャージを着ている人が多く、まだまだ幼い顔が広がっている。その中には、可愛い女子の後輩たちもいた。
「晴香さん、咲さん、綺麗です、素敵です! 写真を撮りましょう! その前にこれをどうぞ。ご卒業おめでとうございます!」
 渡されたのはスイートピーなどが包まれている小さめの花束。
 始まりも終わりもスイートピーだなんて、偶然とは面白いことだと思いつつ、くすっと笑った。
「ありがとう。さあ、写真を撮ろうか。――あ、ちょっとシャッター押して、押して」
 近くにいた一年生の後輩を捕まえて、シャッターを押させる。その調子で多くの人と写真を撮ろうと思ったが、その前に現主将の眼鏡をかけた少年が待ったをかけた。
「さて、皆さん、集まったところで、胴上げをしましょう! 卒業生の皆様、どうぞ真ん中に。他の男子ども、胴上げするぞー!」
「おー!」
 そのノリはまさしく体育会系。一斉に集まると、わあわあ言いながら、四年の男子をまず一人囲み、思い切って胴上げをする。
 その様子を写真で撮り、声だけでも一緒に盛り上がりながら、見守った。
 一人だけ、疲れに少々耐えきれなくなった部員の手によって、危うく地面に落ちそうになったが、どうにか事なく終えている。
「晴香さんも胴上げしますか?」
「君、人の格好を見てから言いなさい」
 厳しく突っ込みを入れつつ、その後輩にカメラを渡して、あっと言う間に写真大会。時間が許す限り、撮り続けていく。
 普段はあまり写真を撮らないが、どうにも卒業式という場になると、急に撮りたくなる。しかも今回は自分が主役であるからなおさらだ。
 写真を撮ることで、その場の記憶が記録として残る。薄れる記憶も、記録が残っていれば、思い出すことが可能だ。
 そしてなぜこの場で無性に撮りたくなるのかは、おそらく最後だからだ。
 この四年生と撮る最後の写真だから、最後の顔向けだから、最後に思い切って送り出したいから――。
 そんなこともふと思ったが、あっという間に時間は経ってしまった。
 会館の前に溢れていた人も少なくなり始める。
「晴香、もう学科の授与式始まるよ!」
「ああ、絶対に私は遅刻しないぞと意気込んでいたのに!」
 頭を抱えながら、毎年送り出している先輩たちのしまったという顔が思い出される。
 後輩たちの方に振り返ると、まだ写真を撮りたがっていそうだが、今はその頼みを断るしかない。
「また後で体育館に行くから! それじゃ」
 そう言い、慣れない格好で、慌てて学科の授与式が行われる教室へと咲とともに向かったのだった。


 教室におそるおそる入ると、すでに名前が読み上げられ、授与が始まっていた。指定の場所に座り込み、まだいくつか空席があるのを見て、胸をなで下ろす。
 だが心が落ち着くまもなく、晴香の名前が呼ばれた。
 元気よく挨拶をして前に行き、卒業証書を受け取る。そこにははっきりと"杉森晴香”という名前が。
 これでより卒業という言葉が身にしみてきた。席に戻ると、他の人が授与されているのを聞きながら、四年間の学科での自分を振り返る。
 頭の良さは真ん中くらいで、授業も真面目に聞いている方ではあるだろう。数科目だけ、本当にキツイ授業はあったが、それは友達の助力のおかげで、どうにか乗り切った。ただ、これと言って、学科のために何かをしたという記憶はない。
 ある人は学科の代表として、大学をよりよくするために動いていた。
 またある人は、学科を盛り上げるために、新入生歓迎会やオープンキャンパスの案内役を積極的にやっていた。
 一方でサークルに精を出していた人、留学などを積極的にした人、研究に没頭した人など本当に様々で、まさに大学と言うところは、十人十色という言葉が似合う。
 そんな中で私はいったい何をしていたのだろうか。
 勉強? 研究? バイト? ひたすら楽しんだ?
 ――いや、違う。
 必死に考えても、いろいろな面で見ても、やはり辿り着くのはたった一つであった。

 バトミントン――というものに。


 * * *


 咲と別れて、一年間お世話になった研究室に顔を出し、また写真を撮りまくり、夜に控えた懇親会の前に、最後に顔を出す場所に向かっていた。
 それは体育館。
 私がラケットを握り、汗を流して練習をした体育館。
 続けようとなど、入学当初は思っていなかった。だが、新入生歓迎会の時に出会った先輩に導かれて、私は再びラケットを握ろうと決心したのだ。
 それから色々と葛藤はあった。部の中でも上手い方ではない私は、打つときは必然的に自分より上の力量を持つ人とである。それはとても有り難く、いい経験であり、見る見るうちに私は上手くなっていった。
 だが、始めから差が付いていた力量など、そう簡単に縮まるものではない。どうせは必死にやっても一定のレベルで終わってしまう。
 競技として、試合に勝つことを求めるのではなく、遊びとして楽しく続ければいいのではないだろうか。
 こんな状態になり、なぜバトミントンを続けているのかと、激しく悩んだ時期があったものだ。
 ――だが結果として、私は練習に行き続けていた。
 ラケットを――振り続けていた。


 * * *


「晴香さん!」
 体育館へと向かう道を歩いていると、一つ下の後輩である、奈央(なお)が手を振りながら近づいてきた。彼女は部内でもバトミントン歴が長く、チームの代表同士で戦う団体戦でもポイントゲッターでもあるが、少しメンタル面が弱いのを気にしている。
 隣まで来ると、走ってきたのにほとんど息を切らせていない。
「体育館に行かれるんですか?」
「予定より少し早いけどね。研究室が早く切り上げられたから。やっぱり私は研究室より、体育館の方が合っているかなって」
「嬉しいお言葉をありがとうございます。さすが晴香さん、言うことが違いますね」
 そんなにおだてても、何も出てこないよ。
 混じりけのない想いに、ほんのり頬を赤くしてしまう。化粧をしていて、あまりばれないだろうが。
「今はどんなお気持ちなんですか?」
「それは最後の言葉にでも。――奈央もあと一年、色々とあると思うけど、頑張って」
「はい、ありがとうございます。あと一年を過ごすにあたって、何かアドバイスとかありますか?」
「自分に自信を持つのが一番じゃないかな。暗示をかけて自信を持てば、きっといい風景が見られるかもしれないよ」
 いや、それは私の勝手な詭弁かもしれない。自分が歩んできた四年間を否定しないようにするための、詭弁――。
「そうですか、ありがとうございます。けど、その暗示は晴香さんには必要はないですよね」
「どうして?」
「だって、そんなことしなくても周りが尊敬していますから」
「ないない、それはない。私はただの凡人。もっと尊敬できる人はたくさんいるよ」
「そんなことないですって」
 少し歩調を速めた私の後を、ぴったりと着いてくる。同じ場所に向かっているのだから、追い払うわけには行かない。
 小さな川沿いを歩いていた。その湖面に私の少し浮かない顔が映る。
 彼女に言われるほど、私はたいそれたことはしていない。ただの思いこみでここまできたのだ――。


 * * *


 ずっとやり続けていれば、モチベーションを維持するのも難しい。試合がない時期はそれこそ大変だ。
 何ヶ月も先の試合のために、その時こそ頑張らなければならないのはわかっている。だが、それでもまだ数ヶ月あるから――そのような悪魔の言葉が常に付きまとってくる。
 そして試合はあるが、出られない立場であると、余計に感情の調整をする必要がある。例えば団体戦など、人数制限が付くが、チーム一丸となって出るため、雰囲気を壊さないためにも、悔しいとかそういう想いを抑えてサポートに徹しなければならない。
 始めはずっと出られないのならそれでいいと思った。ちょっと悔しいが、楽しくバトミントンができれば、それでよかった。
 だが私は知ってしまった、大きな歓声の中で試合をする喜び、大きな舞台に立てる嬉しさに。
 ――こんな気持ちを知ってしまったのは、佳実(よしみ)さんのせいだよ。
 昨年卒業し、私をこの部へと導いた張本人、川田佳実(かわだよしみ)さんを恨めしく思い出していた。


 二年ほど前だろうか。佳実さんが四年生、私が三年生に上がったときに、夕飯に誘われたときだろう。
 少し遅れて待ち合わせ場所に来た佳実さんは、数週間前に部活の女子で飲んだときよりも、疲れて見えた。
 私たちは大学から近いファミレスへと出向き、久々の会話を楽しんでいた。
 食事が終わり、紅茶を飲んでいるときに、真っ直ぐな視線を向けられたのだ。
『ねえ、晴香。私の想い、託してもいいかな』
 目を丸くしながら、話の続きを聞く。
『私は去年まで団体戦に出ていた。けど、研究室での実験が忙しくて、もう部活にも顔を出すのが難しくなった。だからもう試合は出られない――』
 そして少し身を乗り出すような格好で口を開いた。
『そうなれば、きっとギリギリで団体戦のメンバーになれなかった晴香に、その機会が回る確率が高いと思う。だから代わりではないけど、一言伝えておきたくて。ずっと一緒に頑張ろうって言っていたのに、ごめんね』
 視線がだんだんと下がっていく。それを私は慌てて顔を上げさせた。
『そんなこと言わないでください。四年生は卒業研究で忙しいのが普通じゃないですか。だからずっと頑張り続けるなんて、難しいことですよ』
『けど……』
『その想いだけで十分です。佳実さんの想い、引き継ぎます。弱音を吐く佳実さんなんて、似合いませんよ』
 そう言うと佳実さんの表情は緩んだ。どうやら、かなり考えた末に、私に伝えたのだろう。その想いは表情だけでも読みとれていた。


 正直、あの時は、かなり無理矢理感情を上向きに持っていた記憶がある。不安な気持ちの方が大きかったのに、なぜあんなにもハッタリを言ってしまったのか。佳実さんよりも技術的に上手くない私が。
 少しずつ抜けていく四年生、そして三年生である私が一番上になる――。
 当たり前と思っていた人が急に抜けて、不安になってしまう。
 けれど、たった一つ確かな目標が心の中に宿り始めていた。

 “団体戦に出るからには、勝ちたい。足など引っ張りたくない!”

 オープン大会などで団体戦に出たことはあるが、間違ってもポイントゲッターではない。勝てたら、よかったねという程度。
 そんなの嫌だ。公式な試合で、足を引っ張ることが前提な試合をするなど、嫌だ。
 だから――練習量を増やして、一つ一つの練習を大切にし始めた。
 そして三年生の秋、部が目標としている大きな大会の団体戦に出たが、結果として、私も含めてチームは負けてしまったのだ。


 * * *


 バトミントン部が活動している体育館の前に着くと、すでに人がいるのか、電気が点いていた。
 立ち止まり、顔を上げて、体育館を見渡す。そうすることで、少し心が落ち着いてくる。
 四年前は辿り着くまでかなり緊張しており、この場に立つので精一杯だった。だがその時は、頼れる先輩方によって、中へと導かれた――。
 私一人では何もできなかったあの頃は。
 だが、行くのが日課となってしまえば、その想いは忘れてしまうものだ。
 しかし部から離れがちになり、たまに研究の合間に体育館を訪れる時は、多少の躊躇いが発生してしまう。まるで時が戻されたみたいに、ドアを開くのに度胸が必要となる。けれど――それは杞憂であった。


 奈央が立ち止まっている私に対して、首を傾げているのに気づき、我に戻って静まった心で外のドアを開いた。
 そしてスリッパに履き替え、内ドアを開けて、大きな声で挨拶をする。
「こんにちは!」
「こんにちは!」
 明るく元気な声で返される。中に踏み入れると、世話は焼けるが、頼もしい後輩たちが、男子も女子も含めて大勢で待っていた。他にコーチの院生方、そしてスーツ姿の四年生もすでに何人かいる。
「杉森さん、お忙しいのにすみません」
 男子主将が低姿勢で寄ってくる。その様子に溜息を吐く。
「別に強制的なことじゃなくて、私が来たくて来ているんだから、そんなこと言わないでいいの」
 その後は卒業生が揃うまで談笑をし、私が来てから十分後に全員集まった。
 男子主将が前に出ると、喋る声が収まる。
「はい、それでは早速写真撮影に入りたいと思います……が、その前に追いコンで渡しそびれた品を渡したいと思います。卒業生の皆さん、前に出てきてください」
 いったい何を? と思いながら、私や咲を含めた卒業生八人が前に出る。
 そして後輩たちも脇で薄い何かを受け取りながら、八人出てきた。
 私の前に出てきたのは、私から会計を引き継ぎ、よく練習相手をしてもらっていた歩実(あゆみ)だった。可愛く、しっかり者の彼女に対して、安心して役職を引き継げたものだ。
 そんな彼女が目元に少し涙を浮かべつつ、「ご卒業おめでとうございます」と言いながら、受け取った色紙を差し出した。それを「ありがとう」と言い、しっかりと受け取ったのだ。
 そして視線は色紙に移る。それを見た瞬間、密かに堪えていたものが我慢できなくなった。
 色紙を埋め尽くすかのように書き込まれた文字。
 雑なものもあり、少し読みにくいが、後輩たちのメッセージが一面に書かれていた。
 『ご卒業おめでとうございます』に始まり、『しっかり者の晴香さん』や『黙々とこなす姿が素敵です』、『いつも心配くださってありがとうございます』など、最上級の誉め言葉が連なっている。
 そして一番胸に響き、涙を止められなくなった言葉があった。それは――。

『最後まで意志を貫いた姿はみんな知っています。いつまでも強く、気高く頑張ってください。晴香さんの試合、特にあの大舞台での試合が大好きです!』

 卒業生が端から一言述べていく中で、逆側の端で一人でハンカチを取り出し、泣き始めた。
 まだ一年も経っていないあの日の記憶が蘇ってくる――。


 * * *


 佳実さんが卒業をし、私は四年生となった。卒業研究の実験も少しずつ始まるが、まだ序の口。夕方は練習に行ける日々が続いていた。
 とても強い新入生が入部したおかげで、一段と女子も活気づき、今年こそは昨年予選敗退した試合を突破し、本戦に出ようと躍起になっていた。
 私はというと、また団体戦には出られない一歩手前に落ち着いたため、複雑な想いを持ちつつも、個人戦もあるので、それに向けて練習をしていた。
 もちろん立ち止まったときはあった。
 このまま惰性的に続けるのではなく、スパッとやめてしまった方が楽ではないかと。
 だがそんなとき、歩実とセット制限なしの試合をした結果、気づいてしまったのだ。
 ――なんだ、強くなっているじゃない。私はまだまだ強くなれる要素がある。最後までやり続けてみようって。
 そして頼もしい後輩たちのおかげで予選を突破したが、その本戦の一週間前に、突如団体戦メンバーの一人が怪我をしてしまったのだ。
 完治するには数週間かかる。彼女が本戦に出るのは厳しすぎる。
 つまり――私が試合に出る可能性がでてきた、いや出なくてはならない状況になったのだ。


 私のレベルでは、その大舞台に出られる要素などなかった。しかし幸か不幸か、後輩の力と偶然によって出られたのだ。
 ――結果は競ったが、負けは負け。
 競り負けをする度に悔しい想いをし、負けたことによく尾を引いていたが、この日はなぜか違った――。
 ベンチに戻ると後輩たちに、「感動した」など温かい言葉を受け取っていく。椅子に座り込むと、監督から照れるくらいのお褒めの言葉を頂いた。
 どうして、そんな風に接してくるの。私は負けたのに。
 そしてどうして私はドキドキしたり、安堵の表情を浮かべているのだろうか。
 ――その理由は薄々知っているのに、いつまで突っぱねているの?
 呆れているもう一人の私が言い返してきた。
 その言葉に感化され、呼吸を抑えながら、私は閉じていた想いを吐き出す。
 そう――きっと解放されたのだと思う。
 高校でバトミントンをやめようと思っていた原因であり、ずっと引きずっていた競り負け、悔しくて泣いた高校の引退試合、それがこの試合によって打ち消されたのだ。
 そう言うとたいそうなことに聞こえるかもしれない。けど、実際は些細なこと。ただ単にきっかけが欲しかっただけだろう。
 負けはしてしまったが、自分の中である程度納得できる負け方。そして大学まで続けていたからこそ、入部当初は予想もできなかった大舞台に出られた。
 その試合に出られたことが嬉しくて、誉められたことが嬉しくて、続けてきた私をようやく自分で誉めることができた結果、あの表情となったのだ。


 * * *


 気が付けば、卒業生からの言葉も隣の咲が言い始めている。
 ラストは私のようだ。必死に涙を拭い、人に見せてもいい顔にした。
 やがて咲が言い終わると、色紙をぎゅっと抱きしめて、晴れやかな笑顔をしながら、頭の中で思い浮かべた言葉を口に出した。
「お忙しい中、お集まり頂き、ありがとうございます。色紙を少し目に通しましたが、本当に嬉しくもったいない言葉ばかりで、正直照れています。ですが、後ほど、じっくりと読ませてもらいますね」
 ゆっくりと前にいる後輩たちを見渡した。彼ら、彼女らが入部した頃よりも、だいぶたくましくなっている。それがとても嬉しい。
「――では時間もないので簡潔に」
 一息置いて、にっこりと微笑んだ。

「私はずっとバトミントンをやり続けてきて、この部で続けてきて本当に良かったと思う。自分自身に嘘偽りなく、これが好き、これへの想いは譲らない、これから得た思い出はおそらく一生ものだと、今日という区切りを迎えるときだからこそ言えます。だから――皆さんにもそういう風に言えて卒業できるよう、たくさんの苦労があると思いますが、充実した日々を是非過ごしていってください。四年間ありがとうございました!」

 そして割れんばかりの拍手が鳴り響いた。何人かは目が赤くなっている。おそらく私もそういう状態になっている一人だろう。
 言い切って、すごく清々しくなった。始めはただ自分の四年間を正当化させるために、自信にかけていた暗示だった。だが、奈央に言われたことが、色紙に詰まった言葉がそれは暗示ではないと、認めてくれたのだ。
 その上で、心の底から出せた言葉だった。
 そういう言葉を導いてくれた四年間に、そしてその間に私と関わったすべての人に感謝している――。


 最後は体育館内で集合写真。椅子に座り、色紙と朝もらった花束を持って、レンズに視線を向けた。
 カメラは近くを通りかかった学生に頼んでいる。
「始めは真面目でいきましょう」
 意気揚々と指示をする、男子主将。その言葉を見習って、澄ました顔でシャッターを切ってもらう。
「では次ははっちゃけた感じでいきましょう!」
 そういうと、後ろで写っている後輩たちがざわめき始めた。いったい何をするのだろうか。それは写真を現像してからのお楽しみかな。
 私はさりげなくブイサインを作り、顔の近くまで持ってくる。そしてにこやかに笑顔を作った。いや自然と笑みがこぼれたのだ。
 その状態でシャッターを切られ、集合写真は撮り終わった。後ろでは何かが崩れる音がしたが気にしない。
 立ち上がり、ふと入り口へと視線をやる。


 ――あそこから、私の四年間は始まった。
 今、このような想いになるとは、微塵も思っていなかった、あの日から。
 そして私はこの体育館から旅立つ。
 体育館で触れ合ったたくさんの人々の想いが詰まった色紙とともに――。





 了





――――――――――




 お読みいただき、ありがとうございました!
 大学の卒業式の一場面ということで、一人の女性に登場してもらいつつ、部活漬の四年間を振り返ってもらいました。
 読了が爽やかであれば、幸いです。
 これはあくまでフィクションです。大学の卒業式が中止となってしまった私自身への一つの区切りの付け方として執筆しました。
 なお、この小説の主人公である、晴香は導きの花束と同一人物でもあります。
 読まなくても差し支えはありませんが、一応お伝えしておきます。


 今後もよりいいもの執筆できるよう、頑張ります。

 (2011年3月執筆)

  

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