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桜は咲き続ける

 

 

 

 

 

 ひらひらと舞い降りる桜の花びらが持っていたショルダーバッグの上に落ちる。横を見れば、一面桃色で覆われている桜の木。それを見てらしくもなく頬が綻びてしまう。
 四月に入ったばかりの昼下がり、高三に進級した俺は部活の練習を腹痛がすると適当なことを言って、早めに切り上げて帰宅していた。癖毛のある髪をほんの少しだけ茶に染め、着古された感のある学ランを着ながら歩っている。
 毎日頑張ってテニスの練習をしている日々だったが、笑えるくらいに結果が出ない。引退まであと数カ月あるが、そこまで頑張る気力もなくなっていた。毎日溜息をしながら帰っていたが、今日は少しだけ違っている。
 それは帰宅途中にある公園の桜のおかげだ。小さな公園を囲むように桜の木が何本も生えていた。時期も時期なため、桜は満開となっている。それは人々を楽しむ色鮮やかなものを作り出していた。
 俺にとって所詮桜なんてただ見るだけの存在。確かに綺麗だとは思うが、わざわざ有名どころのスポットに行って、花見をしようなんて全く思わない。だからいつも通りにその公園の桜を横目で見ながら通り過ぎようと思っていた。
 だがその美しい桜は思わず俺の足を止めさせる。
 何となく気が向き、、公園の敷地内を横切りながら帰ることにした。
 後ろにある物凄く高いマンションがなければさぞかしいい風景だろうが、もはやどうしようもないことだ。
 中では子供連れや老夫婦が談笑しながら、花見をしている。小さな公園だが、露店も出ており、たこ焼きが売られていた。
 ぐるりと一面を見渡せば、多くの桜が綺麗に色付きながら咲いている。
 ほっと一息吐きながら、公園を通り抜けようとしたとき、突然子供の泣き声が聞こえてきた。
 奥の方に目を凝らすと、一本の大きな桜の木の下で小学校低学年くらいの少年が泣きじゃくりながら木を見上げている。そこにはオレンジ色の風船が引っかかっていた。何かの衝撃で手を放してしまったのだろう。
 少年は風船を取ろうと木に登ろうとしたが、背の小ささは否めない。その様子が少し可哀そうに思い、その少年に近づいた。
「あの風船を取ってほしいのか?」
「そうだよ! お兄ちゃん、取ってくれるの?」
「ああ。ちょっと待っていろよ」
 そう言って鞄から筆箱を取り出してポケットに入れてから、荷物を下ろした。
 軽く肩を回しながら、態勢を整える。学ランの上の方を開けて、首元を少し緩めた。
 そして軽々と木に登り始める。
 桜が頭に振りかかりながらも目を凝らして探すと、すぐに風船は見つかった。なるべく太い枝に軽く腰を掛けながら、手を伸ばして風船を取る。予め持っていた筆箱を括り付けて、ゆっくりと地面に落とした。それを子供が嬉しそうに持ち上げているのが目に入る。
 早く降りようと枝に手を乗せようとした時、ふいに手が空を切っていた。
 体が乗り出した状態で切ったため、身を乗り出す形になる。
 あっと声を上げる間もなく、俺の意識は飛んでいた――。


 * * *


 何だか妙に体が重い。そして頭がずきずきとする。たしか手が支えをなくして、そのあと地面に落ちた……という記憶が最後だった気がした。
 それにしても怖いほどに静かだ。音が全く聞こえない。ひとまず状況を確認しようとする。
 重い瞼を開き、最初に飛び込んできたのは桜や瑞々しい草で覆われた地面と――狐耳だった。
 はて、狐耳?
 狐耳……。
 待て。
 待て、待て!
 ……狐の尻尾を付けた少女が俺に寄り添っている!?
 脳内は一瞬で覚醒して、俺は立ち上がった。その衝撃で狐耳の少女はころんと転がる。
「むう、久々に人の温もりが気持ち良かったのに、痛いではないか……」
 狐耳の少女は何とも呆けた声を出し、欠伸をしながら頭を押さえている。
 体系的には小学校高学年から中学生くらいの少女。クリーム色の着物を着ている。
 そこまでならまあ許せるが、ここからが驚くべきところだった。
 耳は普通の人間の耳ではなく狐のような耳が生えており、そして尻からは触ったらさぞ気持ちいいであろう、ふさふさの狐の尻尾が生えているのだ。
 そうこれはまるで、まるで――。
「狐のお化けかと思ったか? 少年」
 狐耳の少女が見た目とは全然違う、女にしては低く渋い声を出しながら、俺ににやりと笑みを浮かべてきた。
「わしはいわゆるお化けの一種かもしれないが少し違う。人間どもから見れば、『せいれい』とやらに分類されるものだと思っている」
 一体何を言っているのだ、この狐耳の少女は。
 そしてここは一体どこなのだ?
 さっきまで子供が泣きわめいていたのに、今では嘘のように静かだ。周りを見てみれば誰もいないし何もない。鬱陶しいくらい高いマンションすら見当たらない。
 桜が均等な距離を保って咲いているだけだ。
 もう何を考えていいのかわからなくなってきた。ふと気が付くとどろりと生温いものが鼻の下をつたる。そっと触ってみると、血が指に付いた。何だか顔全体が痛い。
 どうして血が……と思っていると、狐耳の少女が軽い足取りで近寄ってくる。そして袂から白いタオルを取り出して、俺の鼻の辺りをぐいぐい拭き始めた。
「全く、そこそこいい顔をしているのだから、もう少し気をつけないかい」
「痛てて……。もう一体何なんだよ! 意味がわからねえ!」
 少女はぼすっとタオルを俺の顔に投げつけてきた。
「うるさい男だな。そんな男では、すぐに嫌われてしまうぞ」
「うるさいって言われても、別にいいだろう!」
「ふうむ、父親はあんなにいいやつだったのに、子供はこんなに口が悪いとは思ってもいなかった。全く助けなければよかった」
 そう言うと膨れっ面の少女は後ろを振り返り、俺に背を向けて歩き出す。
 このまま放っておいてもいいかもしれない。だが心の奥の俺が必死に主張していた。
 呼び止めなければならないと。
「ちょっと待ってくれ……。えっと狐――」
「私にはメイという名がある」
 メイは未だに不機嫌そうな顔をして肩越しから俺を睨みつける。たじろぎながらも、少し愛想を浮かべた。
「何があったかわからないけど、ありがとう、メイ」
 それを聞くと、耳をぴくぴく、尻尾を揺らしながら再び俺の方に体を向けた。その目にはすでに怒りの色はなく、どこかあどけない微笑みが浮かんでいる。
「やはりそう言うところは親子だな」
「はあ、そうですか……。あの、ちょっといいか? 俺、正直この状況が分かっていないんだけど?」
「むむ? そうなのか? それならそうともっと早く言ってくれればいいものの」
「俺、言ったはずだけど……」
 ぼそりと呟くと、狐耳がぴくっと動き、何やら禍々しい気配が漂ってくる。何もなかったかのように首を慌てて横に振るとすぐに気配は去った。
 メイは腕を組みながら、ゆっくりと近づいてくる。
「お主は桜の木から落ちたのだ。物好きにもあんな木に登って風船を取ろうとしてな。その時に運悪く地面に叩きつけられそうになったから、私が助けたわけだ」
「助けたって、どうやって?」
「なに、地面に叩き落ちる直後に多少下から力を与えて緩やかに落下させただけ。その時衝撃的に意識だけ飛んだという所だ。ああ、お前の鼻血はそれくらいの被害で済んだと思って我慢するのだぞ」
「はあ……。あの、まだよくわからないのですが」
「わからなくてもいい。一種の夢みたいなものだ。やがて意識は現実世界に戻る。今は少しくらいこの桜を楽しむがいい」
 そう言うと、メイは隣の桜の木の元に座り込んだ。そして舞散る花びらを取って楽しそうに見ている。
 その木は大層立派な木だ。見渡す限りで最も大きいだろう。
 そう、さっき登った木だった。
 どの桜の木よりも雰囲気を醸し出している。だが所々に不自然に枝が切られていた。
「なあ、メイ、ここにある木は一体……」
「全て現実世界にある木だぞ」
「そうじゃなくて、どうしてこんなに立派な木なのに枝が切られているんだ?」
「ああ、そのことか」
 首を傾げながら呆けていると、メイはそっと木に身を寄り添った。
「この桜の木は一番古いものだ。様々な人間を見ながら静かに佇んでいる。この木の下で告白するもの、これからの進路を決意するもの、涙に溺れるもの――様々な人や風景の移り変わりを見てきた。これからもずっと見て行けるだろうと思っていた矢先、恐れていたことが起こったのだ」
 紡がれる言葉はどこか嬉しくもあり、寂しそうだった。
「そう……この公園内で最初に病気にかかった。放っておけば死に至る病気にな」
 愛おしそうに幹を撫でて行く。
 花びらはメイの頭に降り積もり始める。
「病気にかかった原因はよく分かっていない。排気ガスとやらのおかげで、大気が汚されたせいだと言うのが一つの原因だろう……。まあ病気にかかっても、きちんとした処理をすれば間に合うらしいが……」
 メイがついっと視線を向けてくる。その何かを訴える目に思わずたじろぎそうだ。
 だがその視線は俺ではなく、もっと奥に向けられていた。
 誰かの足音が聞こえてくる。こんな所に人がいたのかと思い、振り返ると作業服を着た男が五人程歩み寄ってきた。その中の一人を見て、俺は目を丸くする。
 話をしながら近づいてきている親父がいたのだ。


 * * *


 気がついたらそこは公園の一角だった。さっきと同じ場所の公園。再び太陽の元に戻ってきたのだろうか。
 だがどこか違う気がする。
 そう鬱陶しいくらい高いマンションが見当たらないし、人通りも少ない。ここ二、三年で急速に発達したはずなのに、どうしてこんなにも人が少ないのか。
「ここはお主がいた時代の五年前のことだ。そしてあの人間達はこの桜の木を調査するために来ている。お主の父親はこの地区の木の管理を任されていたのだ」
「親父が管理だって?」
「お主は父親のことを知らないのか」
「最近ほとんど話していないから」
「そうか、一種の反抗期というものだな」
 メイは腕を組んで一人で頷いている。聞き捨てならないセリフだが、それよりも気になることがあった。
「親父達はどうしてここに来ているんだ?」
「だから桜の木の調査に来たのだ。……木の上の方を見てみろ。おかしな所があるだろう」
 そんなことすぐにわかるかよと何気なく顔を上に向けた。逆光だったため、手で翳(かざ)しながら木の枝を見ていく。
 そしてある所で俺は目を見開いた。
 奇妙な所があったのだ。
 桜の花びらは桃色に色づいている。だが数か所、花も付けずに鬱蒼としている場所があった。そこは枝の一部から小枝を異常に多数発生し、その小枝が竹箒みたいな形となっているのだ。
 あまりの奇妙な様子に俺は唖然とする。
「あれはてんぐ巣病と言う。天狗の巣みたいな形から取られたらしい。あの状態になってしまったら、適切な処置をしなければ数年で枝は枯死してしまうだろう」
 メイから紡がれる言葉はどこか諦めのような雰囲気があった。メイがしょんぼりしているのが見ていられなくなり、俺は必死に元気づけようとする。
「ちゃんと処置すれば治るんだろう? それならすぐに処置を始めればいい!」
 ちらっとメイが俺の方を向いた。その顔には微笑が浮かんでいる。
「やはり親子だな」
「え、だからそれはどういう意味――」
 そう呟いた言葉は風の流れによって消されてしまう。
 そしてすぐ目の前には同僚と複雑な表情をしながら話をしている親父が近づいてきた。五年前とあってか、そこまで白髪は多くない。今と比べて若々しさが出ている。
 だが俺が目の前にいるのに気が付いていないのか。何だか――。
「言っとくが、彼らにお主やわしの姿を見ることはできぬぞ」
「はあ?」
「わしらは今は『ゆうれい』みたいな存在だからな。だから怒るではないぞ」
 飄々と先を越されて言われる。俺はぐっと口を閉じた。
 親父が何も言わずに横を通り過ぎていく。俺が呼びかけるも何も反応しない。一緒にいた人も振り返らない。メイの言っていることは本当なのだろうか?
 メイの発言に府に落ちないことが多々あり、今度こそ追求しようと試みる。
 だが当の本人はまたしても近くのベンチに座りながら欠伸をしている。小春日和とも言いたくなる陽気にああいう行動をするのは仕方ないことなのかもしれない。
 何だか調子が外れてしまった。
 これは本当に夢物語と言ってもいいのだろうか……?
 ひとまず今はこの成り行きを眺めていようかと思い、メイの横にそっと座る。それをメイはにこっと微笑み返してきた。その可愛らしい笑顔に呼応するように鼓動が速くなる。
「なんだ、大人しくなったではないか。何と単純なやつだの」
 ああ、もっと容姿相応の声と言葉づかいをしてくれれば、きっと俺はこの子に心を奪われていたかもしれない。ぎゅっと手を握りながら、どこか切なさと悔しさで溢れている心を抑えていた。
 親父の方を見れば、五人で梯子を木にかけて何やら激しく話し始める。
 一人が病気になっている枝を探し当て、状況を詳しく言っていく。その内容から重苦しそうな雰囲気が漂ってくる。
 誰かがゆっくりと首を横に振った。それに賛同するように親父を除いた三人も俯いている。だが親父だけが、必死に訴え続けているようだ。手を振り回して、必死に説得しているのか。
「この病気は胞子の飛散によって拡大する。この木は割と侵攻が速いようでな、他の木に伝染しないためにも一刻も早く木自体を切ろうと言っている。だが、お主の父親はそれを止めようとしているのだ。まだ適切な継続的に何年も処置をすれば大丈夫だと。全てを切ることが必ずしも最良なことではない。何年も生長してきたものを何もせずに切るという行為でその一生を終わらせてしまうのは――」
 メイは途中で言葉を切った。何かを思いつめた表情を親父達の方に向けている。
 親父のことをじっと見つめていた。
 それにつられて俺も見る。親父の仕事など、こんなにまじまじと見るのは初めてだった。
 確かに小学生の頃とかはよくハイキングやキャンプなど、自然に触れられる所によく連れて行かれた記憶がある。それは俺のためでなく、親父自身の木に対する想いから出ていたのかもしれない。
 やがて話し合いの末、親父はにんまりと笑顔になっていた。
 どうやら親父の意見が無理矢理通ったようだ。つまり適切な処置をするということ。
 そうすればこの桜の木は切られずに済む。
 何だかほっとした気分になって、改めてメイに向けて振り返った瞬間、辺りの風景は再び一転した。


 * * *


 メイと出会った場所に戻っていたのだ。マンションもベンチもない、ただ桜の木が永遠と続いているだけの空間。
 そこで一人ぽつんと大きな桜の木の下に狐耳の少女が立っていた。ぽんっと木に手を添えている。その表情はいつになく嬉しそうだ。
「あの後、その年の冬に病気にかかっている部分を切り取って処置をし、その行為を最低三年繰り返したのだ。初期の病気は見つかりにくいから、とにかく病気は継続的に処置しなければならない。――結果として、五年経った今でもこのソメイヨシノの木は生き続けている」
 メイの想いが一心に詰まった声に思わず心が詰まる。
 一時は死線をさまよいそうになった木は、人間が手を加えることによって生き続けられているのだ。ソメイヨシノの精霊であると言うメイにとっては、これほど嬉しいことはないだろう。
 桜を思い浮かべればソメイヨシノを真っ先に思い浮かべてしまう。春の訪れとともに開花し、俺達に新たな風を吹き込んでくるその木は実は常に危険と隣り合わせなのだ。それは毎年当たり前のようにソメイヨシノを見てきた俺にとって衝撃的なことである。
 だが病気に掛かっている事実を知り、放っておいて消えゆく命をただ見ているのではなく、そこに適切な処置をしている人がいた。大変手間のかかる作業をしながら、命を永らえさせる一つの助力をしているのだ。
 その理由はきっと単純に――。
「人間達は桜が好きなのだろうな」
 メイは俺が思っていた言葉を代弁してくれた。とびっきりの笑顔を浮かべている。
「最低三年間も継続的にやるなんて、大変なことだろう。だがお主の父親はやってのけた。そう、桜が好きであるから――」
 その言葉が俺の心に突き刺さる。親父の仕事内容などあまり聞いていないのがどこか痛い。
「美しく居続けるさせるために、そしてたとえ見た目が悪くなっても生き続けてもらうためには、誰かの想いと継続が必要なのだ。その想いはやがてこの木に通じてくるだろう」
 メイがゆっくりと近づいてきた。何かを諭すような優しい微笑みを浮かべている。
 俺は自分の中にあるもやもやしたものが、少しずつ晴れていく感じがした。部活に対して埋めていた感情が掘り返されてくる。
 俺にとってテニスをすることは好きだ。好きであり、強くなりたいから今まで頑張り続けてきた。そういつか出るかもしれない結果を求めながら――。
 メイから発せられる言葉は自然と俺の心の中に響き渡っていた。
「それは人間自身にも言えることだろう。綺麗になりたい、強くなりたいと思うのなら、そう想いながら続けることが大切だ。好きであるなら尚更できるであろう。やがて継続すれば自ずと結果は付いてくるはずだ。始めは小さな桜の木も生長すれば、さぞ立派なものになる」
 そして俺の目の前に立つと、屈託のない笑顔をしながら一言だけ残して行った。
「そう、継続は――いいものだろう?」


 * * *


 その次の日、俺はいつも以上に練習に取り組み始めた。引退まで残りわずか。
 結果はでないかもしれない。だが練習し続けなければ結果は決してでない。
 例え結果が出ないとしても、それはきっとその後俺に大きな意味をもたらすと思っていた。

 練習の帰り道にある桜の木、特にソメイヨシノを見ればあの可愛らしい笑顔が浮かんでくる。
 桜が咲き続けている限り、彼女の笑顔は絶やさないだろう。

 春の訪れと共に、桜は人々に癒しと感動を送ってくる。
 そしてその華やかさが続くのは、人々が桜を大切にするという想いがずっと続いているからかもしれない――。




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お読み頂きありがとうございました。
小説風景12選「4月」参加作で、イラストをイメージして書いた小説となっています。
企画等の詳細は、cafe de romanをご覧ください。
この小説に出てくる、てんぐ巣病とは実在する病気です。
桜の季節……、桜の美しさを楽しむ以外にも、そのような所に注目するきっかけとなれば幸いです。

(2009年3月執筆)



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