心のメロディー

3、雨だれの記憶

 時が流れるのは早いもので、静山が転校してきてから一ヶ月以上も過ぎていた。もう二月も末、少しずつ草木に緑が戻り始めようとしている。寒かった冬も終わり、ようやく春になろうとしていた。春、それは誰もが胸を躍らせる季節。だが、その春を迎える前に秋谷は一つの大きな節目の日が迫ってきていた。
 その日も教室内では俺と静山は顔を合わしたら話す程度で、いつも通り過ごしている。ただ出会った当初より多少は口調も軽くなっていた。
 そして放課後になると二人は別々に小屋に行き、他愛もない話をしながら、それぞれのやりたいことをし始める。俺は家から持ってきた楽譜を読みながら、新しい曲を練習していた。静山は小説の大まかな流れ、そして詳細を書いている。小説本文自体は家のパソコンで執筆しているらしい。それが終わると、宿題など勉強をし始めた。徐々に期末テストも近づいてきている。ピアノを弾くのはそこそこにして、お互いに机を向き合わせながら勉強をした。
 シャーペンをノートに走らせる音が聞こえる。俺は静山をまじまじと見た。俺も勉強自体はそれなりにできる方だ。だが、静山はそれよりも断然上だった。期末テストが終わればそれが数字となってわかるだろう。視線に気づいた静山はノートから顔を離した。
「どうしたの、霧川君」
「……静山って頭いいよな」
「これくらいコツコツ勉強していれば解けますよ?」
「そのコツコツというのができないものなんだが……」
「ですけど、私は運動に関しては全然できませんよ。だから、むしろ楽しそうに運動をしている人の方が素敵だと思います。……霧川君、私も一つ質問をしていいですか?」
「いいけど……」
 静山から質問を投げかけるなど珍しい。そしてどこか改まった感じがしていて、思わず背筋を伸ばす。彼女は多少躊躇いがちに口を開く。
「別に言いたくなければいいのですけど、霧川君、ピアノを弾いている時とそれ以外の雰囲気が違うのはどうして?」
「えっ……、違う?」
 唐突に言われた言葉に思わず息を呑む。
「そう、特に教室にいるときは無理して自分を押し殺している感じがして。どこか人と一線を置いている気が……。そしてそれが日に日に増しているような……」
「いや、押し殺していないよ」
「そうなの? じゃあどうして音楽の授業では、あんなに辛そうな顔をしながら歌っていたの?」
 遠慮なく確信を突いてきた。音楽の授業では大抵、先生のピアノに続いて皆で歌っている。パート練習をして、その後に合唱という、それはよく有り触れた光景だ。先日もようやく一曲それなりにまともに歌えるようになった。パート練習ではさすがに静山と会うことはないが、全体合唱をした時に俺の顔を見たのだろう。
 音楽の授業が嫌いなわけではない。むしろ好きだが……。
 なるべく表情を変えないように落ちついてその返答をする。
「気のせいだよ」
「嘘。絶対に嘘。辛いことがあるなら誰かに言えば――」
「気のせいだって言っているだろう!」
 思わず静山の声を遮って、大声を出す。拳を固く握りしめながら、ふつふつと溢れる想いを抑える。彼女の寂しそうな瞳が向けられていた。
「霧川君は自分を押し殺し過ぎている。もっと素直に生きたらどうなの?」
「どうしてそんなに上から目線なんだ。俺がどうと勝手だろう」
 机にあった教科書やノートを閉じ、鞄にしまい始める。静山は俺がそういう付け返す行動に対して口走っていた。
「まあ、人が心配しているのに、その言い草は何ですか!」
 珍しく感情を剥き出しにしている彼女に驚きもしたが、それが逆に俺に対して火に油を注いでしまった。
「心配って、静山に心配される筋合いはない! 素直って言うが、俺が素直な所を知っているのかよ。知らないのに言うなんて……」
 鞄に必要なものをしまい終わると、外に向けて歩き出そうとした。静山は慌てて立ち上がり、俺の背中に向かって叫んでくる。
「私はたった一度しかない人生を大切にしてほしいから、そう言ったのよ。世の中には読み書きもできない子はたくさんいる。お金とか色々な面のせいでピアノが弾けない子はたくさんいる。理不尽な死に迫られて、思い通りに生きられない人が世の中にはいる――。それなのに、恵まれて生活しているのに、自分の感情に素直に行動できないなんて……何だか寂しすぎる……」
 足を動かすのをやめた。肩越しから静山を見る。――彼女の目からは涙が出ていた。
「生きるのなら悔いのないように、自分の感情に悔いのないように生きなきゃ。それを望まれて、あなたはここに生を受けたんでしょ? お母さんのお腹から」
 母という言葉を聞いて、顔が思わず引き攣る。静山はそれに気づかずに続けた。
「私は自分に素直に精一杯生きる。この心臓が止まるまで。後悔だけが残る人生なんて、他人でも悲しいわ……。霧川君はあんなに美しいメロディーが出せる。本当は霧川君自身ももっと素敵な人でしょ?」
 ゆっくりと体の向きを変え、彼女の目をじっくり見た。
「そう、音楽は人の心をそのまま投影するって言うでしょ?」
 無理に笑みを浮かべているが、泣いている事実は変わらない。
 不思議に思った。どうしてこの少女はこんなにも必死に言うのだろうか。
 その様子を見て、自身の心の奥を覗き込んでみる。心に闇を落としているのを隠すために、『素直』というものも一緒に埋めてしまった。それでいいと思った。それで……。
「……俺は恵まれている方だとは思わない」
「えっ?」
 突然出される言葉に思わず静山は返答に窮しているようだ。
「母さんは俺に何を望んで産んでくれたのかな」
 自嘲気味に話す。本当にどうして会って二か月も経たない人にこんなことを話し始めるのか、不思議でたまらない。それでもこの少女には言ってもいいと思った。俺自身のメロディーを好きと言ってくれる少女なら。
 窓の方に近寄り、申し訳ない程度にあるカーテンを閉じた。灯りは微かにある電灯だけだ。
「俺の母さんは三年前に亡くなった」
 静山は目を丸くしながら息を呑む。
「ちょうどこれくらいの時期。あの日は久々に雨が降っていたよ」
 鍵が付けられていた記憶の本は静かに開かれた。


 * * *


 雨の雫が本当に咲き始めの新芽に落ちる。乾燥した日々の中での潤いだった。鬱陶うっとうしそうに傘を差しながらも、人々の表情にはほんの少し嬉しそうだ。
 兄さんの高校受験も無事に第一志望に入るという華々しい結果で終わり、それを祝して家族で外食をして帰っていた。当時、俺は小学五年生で、よく遊び、よく食べる育ち盛りの頃だ。その日は楽しそうに母さんと並んで歩いていた。
「ステーキ、美味しかった! また食べたいな」
 前を歩いていた、父さんは苦笑しながら答える。
「おいおい、父さんの懐を寂しくさせる気か? そんなにいつも食べられないさ。秋成はどうだった?」
「ああ、美味しかった。今日はどうもありがとう……」
 少し照れながら兄さんはお礼を言う。それを聞いて、隣にいた父さんはぽんっと頭を叩く。俺は隣にいる母さんにも視線を向ける。
「母さんも美味しかったよね?」
「ええ、もちろん! 今度は私が何か奢ってあげましょう。最近レッスンを受ける人が増えていて、お金にも余裕があるのよ」
 母さんはピアノ教室を開いている。町の一角だが、丁寧な指導と優しい先生ということで、多くの子供たちが通っていた。その子供たちの一人に俺も含まれている。小さい頃から母さんのピアノを聴きながら育った俺は、自然に四歳くらいから自らの手を鍵盤に乗せていた。兄さんの方は音楽に興味を持たなかったので、俺の行動を見て、母さんは嬉しそうだった。レッスンの合間に教えられたりしているうちに、見る見る内に上達していった。ピアノから離れる時もあったが、それでもいつかは戻ってきて、音楽を奏でていた。
 それは俺がピアノを弾くことが好きだったから……の一点に尽きる。
 母さんはにこにこしていたが急に立ち止まり、しまったという顔をした。
「あら、さっきのお店に忘れ物をしちゃったみたい。一度取りに戻るわ」
「忘れ物? そんなものあったか?」
「さっき行く途中で買った楽譜よ。秋谷に次に弾いてもらおうと思っていた曲よ……。お父さん、二人を連れてそこの角のケーキ屋でケーキを選んでいてくれる? 私から秋成へのお祝いとして買う用の」
「わかった。さあ秋成、秋谷、行くぞ」
 母さんは申し訳なさそうに来た道を戻り始めた。父さんにつられながら、俺はじっと母さんの背中を見つめる。いつも見ていた小さくも大きな背中。それが一瞬消えたように見える。慌てて目を擦ると、錯覚だったのか、確かに母さんはそこにいた。漠然とした不安を思いながら、ケーキ屋に入る。
 ケーキ屋で見積もりながら、戻ってくるのを十分ほど待っていると、道路の向こう側で母さんが信号を待っていた。俺は窓越しから、その様子を眺める。父さんと兄さんも何気なく見た。
 信号が青に変わると、勢いよく母さんは駆け出してくる。手には楽譜の入った袋を抱えていた。
 だがその時、右から物凄いスピードを出した車が飛び出してきた。渡り始めて間もない場所を、必死に前を向いて走っていた母さんはその車に気付くのに遅れる。
 俺達三人があっと息を呑む間もなく――、かれた。
 俺は傘も差さずにケーキ屋を出る。車はそのまま轢いたまま、走り逃げていた。
 父さんと兄さんも慌ててその後を追う。信号は赤になったが、あまりに一瞬のことでその場にいた人達は動きを止める。
「母さん!」
 叫びながら駆け寄る。横断歩道を濡れながら走りきるが近づく前に思わず数メートル離れて立ち止まった。目の前には雨に打たれながら、頭から血を流している母さんが横たわっていた。傘はどこかに飛ばされている。
 追い付いた父さんと兄さんはその光景を見て、目を丸くした。そしてふらふらと近寄りながら、父さんは揺すり始める。そして嗚咽を出し始めた。
 どう見ても息をしているようには見えない。
 ――即死だった。
 その日を境にして、俺達、霧川家は一転する。


 若くして、不幸な事故で亡くなった母さんの葬儀にはたくさんの人が来た。ピアノのレッスンを受けていた子供たちもぐすぐすと泣きながら、葬儀に来る。母さんの死が信じられずに呆然とその様子を俺は眺めていた。そして気づいた。自分の母さんはこんなに愛されていた人だったのかと。
 しばらくは慌ただしい時期が続いた。事件ということで警察も動いてはいたが、犯人は捕まらず、ただ母さんの命を奪った盗難車だけが発見される。学校からも色々話があり、しばらくは休んでもいいということだった。次第に死ということに気付き始め、涙を堪えて歯を食いしばる日が続いた。
 そんな中、ふとレッスン室のドアが目につく。あの日以来開いてはいない。そんなに月日は過ぎていないが、もうピアノを弾いたのが遠い昔のように思えた。
 少し埃が被っている蓋を開けると、純白の鍵盤が目に飛び込んでくる。椅子に腰を掛け、指を鍵盤に下ろすと、母さんについ最近まで習っていた曲を弾き始めた。ただ無我夢中で弾く。細かなフレーズなど気にしない。ただ、無性に弾きたかったからだ。
 突然、ばんっとレッスン室のドアが開かれた。弾くのをやめ、ドアの方を見る。父さんが信じられないという顔をして立っていた。
「父さん?」
「あ、秋谷か。何だ、そうだよな……」
 慌てていた自分を抑えるかのように、父さんは呼吸を整える。
「どうしたの?」
「いや、ピアノの音が聞こえたから……、つい……。なあ、秋谷」
 額に汗を掻いている父さんを訝しげに見る。そして次に出てきた言葉に、かなり戸惑った。
「しばらく……ピアノを弾くのをやめてくれないか?」
「えっ……」
「すまん、ピアノの音を聞くと、どうしても母さんのことを思い出してしまうんだ……」
 そう言うと、父さんは堪らずぼろぼろと泣き始める。こんなに間近に取り乱しているのを見るのは初めてだ。
 それを見て、心の中で何かが砕け散った。
 この家でピアノを弾いてはいけない。それはやってはいけないことだ。
 雨に濡れた楽譜が思い出される。
 あの楽譜を取りに戻らなければ、こんなことにはならなかった。あの時、新しい曲を弾きたいなんて言わなければよかった。
 あの時、あの時……、それがいつまでも頭の中に反響された。


 それ以後、俺は家でピアノに触れることはなかった。
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