心のメロディー

1、出会いの音楽

 凍える風は外を歩いている人々を思わず震えさせてしまう。マフラーに首を竦める者も少なくない。紺色のブレザーの上に紺色のコートを羽織りながら、俺は白い息を吐きながらいつものように通学路を歩き続ける。
 ふと空を見上げれば、からっと広がる青空。その空は一体どこまで続くのだろうか。季節はすっかり冬。俺にとってあまり好きではない季節が到来していた。


「なあ霧川、知っているか? 転校生のこと」
「ああ、少しだけ。女子が一人来るって小耳に挟んだぞ」
「そうなんだよ。こんな時期に来るなんて珍しいよな」
「それぞれの家庭の事情によるさ。学期の始めなんだから、いいじゃないか」
 霧川と呼ばれた俺は途中で話を切ると、教科書を鞄から取り出し、机の上に置いた。
 ここ四季ノ宮東中学校は特に何かが秀でているとも言えない、普通の市立中学校。一月の寒い時期に行われた三学期の始業式で退屈な校長先生の話を聞き、俺達、生徒は教室へと戻っている時間だ。一足早く席に戻った俺こと、ruby>霧川秋谷きりかわあきや》は友達から急に転校生の話を聞かされ正直驚いていた。眼鏡を整え、短く切り揃えたさらさらとした髪をかきながら、一応話に耳を傾ける。
「なあ、可愛い子かな。可愛かったらどうするよ!」
「別にどうだっていいだろう。転校生なんて、ただクラスに一人増えるだけだろ」
「冷たいねえ、霧川。どうしてもっと心待ちにしないんだ。教室中を見てみろ、みんなその話題でもちきりだろう」
 そう言われた俺はちらっと教室を見渡す。いつも通りクラスメートは談笑している。その中で転校生の話をしている人も少なくない。話題に出すだけなら可愛いものだが、男子の中には鏡を取り出して髪型を確認している人まで現れていた。それがまた滑稽な様子である。
 だが正直言って、俺にとってはあまり関心のないことだった。むしろどうして外から人が来るだけで、こんなにも教室の雰囲気が変わるのだろうかと疑問に思ってしまう。
 ざわめきの中で唐突にチャイムが鳴った。ホームルームの始まりを意味するチャイム。慌てて席に着く人やそのまま話しこんでいる人と分かれる。
 鳴り終わる頃には、教室の前のドアががらっと開かれた。日焼けした肌が印象的なまだ若い担任の先生が教卓へと歩き始める。それを皮切りにして、さすがに立っていた人達も椅子をひく音を出しながら座り始めた。
 やがて座り終わるのを確認すると、明るい声を発する。
「さて知っている人も多いと思うが、このクラスに一人仲間が増えることとなった。みんな仲良くしてやってくれ。さあ入って」
 先生に促されるとドアの向こう側から一人の少女が現れた。紺色のブレザーに胸元にはリボン、肩よりも少し長く結んでいないストレートの髪が揺れる。クラスの人達はその少女に釘付けになった。美人とまではいかないが、可愛い部類に入る小柄な少女に、感嘆の声を上げるものまでいた。
 少女は先生の隣にまで行き、遠慮深げにクラスを見渡す。
静山千春しずやまちはると言います。両親の都合でこちらに引っ越してきました。これから短い間ですがよろしくお願いします」
 深々と頭を下げると、拍手が鳴り響く。そして頭を上げると再びクラスを見渡しながら微笑んだ。
 その時、俺と視線が合った。思わず心拍数が上がる。
 だが、すぐに視線は違う場所に向いていた。ただの偶然だったのだろうか。
 そうだとしても、中々彼女の笑みが離れられなかった。


 * * *


 静山千春が来て、すでに二週間が経とうとしている。物静かでいつも読書ばかりしている少女だが、集まるクラスメートにも笑顔で応え、そして素直な性格からすぐにクラスに溶け込んでいた。昨日見たテレビの話や授業のことなど、話も多方面に渡っている。
 日々確実に馴染んでいる様子を俺は何気なく遠目に見ていた。その視線を目敏く見つけた友達はにやっと笑みを浮かべる。
「霧川……、一体何を見ているのかな?」
 どきっとしながら、視線を友達へと戻す。そこにあったのはからかい始めようとする目。ぼけーっとしていた時に行った視線の先を恨めしく思う。上手くこの場から抜け出す言葉を考え出す。
「ちょっと考え事をしていただけだ。さっきの数学の問題がよくわからなくて……」
「ああ、あの問題はさっぱりだった。だが静山は澄まして黒板で解いていたな。静山って頭もいいんだね、霧川」
 しまった、逆効果だったと今更ながら気づく。いつもとは逆の立場になってしまったために中々反撃の狼煙が上げられない。ひとまずこの場から離れることが一番いいか……と考える。
 思考を巡らすと、俺はやらなければいけなかったことを思いつく。
「なあ霧川、どう思う? 静山のこと」
「すまん、先生にプリントの提出し忘れていたんだ。ちょっと行ってくる」
「え、待てよ、そんなの後でもいいじゃないか……!」
 さっさと立ち上がり、何やら叫んでいる友達の声を無視する。
前もろくに見ずに教室から出ようとすると、ちょうど静山も出るところだった。思わぬところで鉢合わせ状態となる。
「すみません、先、どうぞ……」
 謙虚に差し出す言葉と仕草に一瞬気を取られる。ここで止まっては逆におかしいと思い、すぐにいつものように軽く言い流す。
「ああ、ありがとう」
 素っ気なく言い、廊下へと出て行った。そして軽く走りながら急いで静山から離れる。あんなに近くに顔が来たのは初めてだ。少しだけ顔に熱を持っているのに、俺はまだ気付かなかった。


 放課後、生徒達は部活動に精を出すべく勢いよく教室から出て行く。
 部活動に所属していない俺は、ゆっくりと帰りの支度をして教室から出た。この学校では強制的に部活動に所属しろとは言っていない。勉強に専念したい人や他に習い事をしている人もいるから、そこら辺は融通を利かしているのだ。
 真っ直ぐに校門へ向かおうとした。だが歩む足の向きは校門から急に右に逸れる。そして気がつくと校舎の裏へと向かっていた。
 昼間と比べて格段に校舎の人口密度は低いので、裏を歩いていても窓から見られるということはほとんどない。とても静かだ。歩き続けると、木に囲まれたところに一軒の古い小屋がある。昔、物置として使われた小屋だが、いつしか物置は別の場所を利用するようになり、その中身を移動して取り壊すのを忘れたのか、学校の端に置いてきぼりのように立っていたのだ。
 俺はその小屋の前に立つと周りをきょろきょろ見渡す。誰もいないことを確認すると、扉を開いた。
 ほとんど開けられない扉が軋む音と共に開かれる。中は物置だけあって、さすがにごちゃごちゃしていた。だが以前、丁寧に荷物をどけたため、通路はどうにかある。扉をゆっくり閉め、太陽の光が射しこむ小屋の中に足を進めた。そしてささやかな通路の終わりには、黒塗りで埃が少しばかり被っているピアノに辿り着く。
 カバンを下ろし、そのピアノの椅子に乗っている埃を軽く払って腰を掛けた。天井を見上げれば、クモの巣がある。どこかじめじめした感じもある。だが、俺にとってはピアノがあるだけで幸せだった。
 ほっと一息をくと、ピアノの蓋を開く。鍵盤が黄ばんでいる。一音、指で押してみた。味わい深い音が鳴り響く。音はまだ狂っていない。誰かが密かに調律しているのだろうか。訝しくも思うが、逆にそれは非常にありがたいことだ。
 両手を鍵盤の上に乗せる。一呼吸すると、指を動かし始めた。
 押される鍵盤から流れるように出てくる音。
 時に優しく、時に強く出る音に、まるでそこに物語があるような錯覚に陥る。美しく奏でられる音は、一瞬で古びた小屋いっぱいに広がった。日差しはまるで照明のようにピアノを照らす。
 そんな素敵な時間が一曲引き終わるまで続いた。
 そして最後の音を感慨深く出し、ゆっくりと鍵盤から離す。余韻に浸りながら、目を閉じる。
 その時、突然拍手が湧き上がったのだ。俺の表情は一瞬で強張り、急いで後ろを振り返り、入口を見る。そこには綺麗な制服に身を包み、ストレートの黒髪によく似合う端正な可愛い顔立ちをした静山千春が立っていた。表情は明かりが暗いためによく見えないが、意気揚々としている雰囲気が漂ってきている。
 静山は一歩一歩、部屋の奥へと足を踏み入れてきた。俺は思わず隠れようと考えたが、そんな時間も場所もない。すぐにはっきりと顔を見られる位置まで静山は来ていた。
「霧川君……ですよね? 同じクラスの」
「ああそうだが、一体何のようだ」
 俺は努めてぶっきら棒に答える。いつかは人に見られる、聞かれるかもしれないということは分かっていた。だがまさかこの学校に来て数週間の少女に見られるとは……、悪態を吐くのを通り越して、正直驚いている。冷汗が薄らと額に出始めていた。
 静山はそんな俺の様子に全く気付かないようで、目を煌めかせながら見つめてきた。
「すごい……、とても上手ですね! 是非もう一度弾いて下さい!」
「断る」
 敢えて視線を合わせず、ピアノの蓋を静かに閉じる。それが拒絶の反応であるとわかったのか、静山は顔を俯かせた。
 その様子に思わず心が疼く。だがその気持ちとピアノに対する気持ちは別。
 二つの気持ちを割り切って、帰る準備をし始めた。すると、すっと静山は顔を上げたのだ。
「霧川君、お願い、もう一度聞かせて下さい! とても素敵だったの。心が綺麗になるような感じがして。他の曲でもいいですし、今が無理なら、次の弾く機会を教えて下さい!」
 俺はあまりの押しに思わず後ずさりした。あの大人しいと思っていた少女がこういう風に切り返してくるとは、予想を遥かに超えていたのである。必死な表情で訴える様子が、何故か鼓動を速くさせていた。ここで完全に無視するのにも気がいたたまれず、心の中で自分自身に対して溜息を吐きながら、会話のボールを投げ返す。
「……静山さんはどうしてこんな所に?」
「ちょっとふらふらっと校内を探索していたのです。そしたらどこからか素敵な音楽が聞こえてきて……、思わず覗いてしまいました」
「探索? こんな寒い時期に」
「そうです。この時期にしか見られないものってあるじゃないですか……」
 さっきの煌めく表情とは違い、少し憂いを浮かべながら言う。その方が似合っているような気がした。
 だがその考えよりも他の考えがすぐに浮かんでくる。
「ちょっと待って。もしかして、そんなに音漏れていたのか?」
「はい、少しだけですが。おそらくこの小屋の前を通り過ぎれば多くの人は聞こえると思いますよ」
 改めて言われる事実に顔が真っ青になる。
「ですけど、素敵な音色でしたもの。誰が聞いても嫌な顔はしませんよ」
 フォローのつもりで言ったらしいが、それが余計に追い打ちをかける。
「なあ、静山さん……」
「何ですか?」
 より重い調子で静山に語りかける。
「今聞いたこと、見たことは誰にでも言わないでくれるか?」
「どうしてですか?」
「どうしてもだよ。こっちにだってここでピアノを弾いている理由が色々あるんだ」
「そうですか……」
 きっと物わかりがいいであろう静山だから、承諾してくれるだろうと思っての言葉だった。このまま大人しく引き下がってくれて、俺もしばらくこの小屋に近づかなければ、例え他の誰かが聞いていたとしても、それは空耳だったということにできる。
 だがまたしても予想外の言葉で返された。
「わかりました、誰にも言いません。ただし霧川君がピアノを弾いているとき、一緒にここにいてもいいですか?」
「はい!?」
 声を高々と上げて、驚きを露わにする。ここで静山千春に対する俺の見解は明らかに変わった。大人しく、物静かな少女ではない。図々しく、自分の意見を真っ直ぐに突きつけてくる少女だと。
「駄目ですか?」
 じっと視線を送られて、思わず隠していた想いが再び出てきそうなことに気づく。それを知られないためにも、やれやれと肩を撫で下ろす。
「……検討しておく。その代わり、お願いだから誰にも言わないでくれよ」
「わかりました。ありがとうございます。あ……、もうこんな時間」
 何となく腕時計を眺める。
「すみませんが、今日は帰りますね」
 ぺこりと頭を下げ、顔を上げると、にこりと微笑んだ。その笑顔はあまりにも反則できだった。あまりのことに言葉を失っているのに目もくれず、静山は入口まで歩っていく。そしてノブに手を掛けようとして、再び振り返った。
「霧川君の演奏も素敵だったけど、霧川君自身も素敵でした。みんなにも是非見させたかったな……。それでは、さようなら」
 少し哀愁を漂わせながら、小屋から出て行く。
 俺は少しの時間呆然と突っ立っていた。そしてぽつりと呟いていた。
「俺が……素敵?」

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